現在「午前十時の映画祭」(全国55劇場で朝10時から往年の名作を上映するイベント)で『七人の侍』が公開中だ。その高画質は圧倒的で、新作のような輝きを放っている。
観直して、気づいたことがある。それは、野武士たちに襲われ、侍たちに守られる被害者側にいるはずの、農民たちの残酷さだ。当初の侍たちに対する疑心暗鬼の目もそうだが、驚いたのは野武士の一人を捕えた時の対応だった。よってたかって竹槍でメッタ刺しにするのである。これまで野武士から受けてきた暴虐を考えれば当然の感情の表れとも思えるが、それでも描写の執拗さに身震いした。気弱に見えた農民たちが集団になり、相手が弱っていると分かるとこうも変貌するのか――と。
脚本を書いた橋本忍の作品は、代表作『砂の器』での放浪の旅を続ける父子への冷酷な仕打ちが特にそうだが、「庶民が徒党を組んだ時に見せる、弱っている相手への残酷さ」が描かれていることが少なくない。そこからは、偏狭で排他的な「ムラ社会」の恐ろしさを感じ取ることができる。
今回取り上げる橋本脚本『真昼の暗黒』もまた同様だ。
一九五一年に山口県の農村で起きた実際の老夫婦強盗殺人事件を題材にした本作は、まだ裁判が係争中にもかかわらず主犯として逮捕された容疑者を「冤罪」と断じ、公開時に大きな話題を呼んでいる。
最初に逮捕された小島(松山照夫)は自らの単独犯と認めていたが、警察は多数犯説に固執、小島を拷問にかけて四人の友人を強引に共犯者に仕立て上げてしまう。しかも主人公の植村(草薙[くさなぎ]幸二郎)は主犯扱いにされ、一審・二審共に死刑判決が下った。
これだけでも主人公は十分に理不尽な状況なのだが、橋本はその傷口に塩を塗り込むかのような描写を加えている。それは、彼の暮らしていた村人たちの冷淡な態度である。
小島を除く四名の容疑者の母親たちは息子の無実を信じ、不当判決を訴え続けた。が、そのことで村人たちの反感を買うことになり、各々の商売は立ち行かなくなる。「そんなことをしていないで被害者に線香の一本でもあげたらどうだ!」と叱責された母親の一人は線香の箱を手に被害者宅へ向かった。その際に挿入された場面が、短いながらも強烈な印象を放っていた。
被害者宅へ向かう母親は、二人組の通行人とすれ違う。その際、通行人は母親を白眼視しながらヒソヒソ話をする――。わずかな時間の描写だが、そのあまりに冷たい眼差しを観ているだけで、母親たちが「村八分」になっていることが十分に伝わってきた。
野武士や官憲だけではない。庶民、つまり我々にもまた、残酷さが潜んでいる。橋本脚本はそう突きつけてくる。