同じ「文藝春秋」1954年4月号掲載の染谷昌平「二人の秀駒―汚職の蔭に踊る女」は次のように書く。
新橋の芸者で、はじめ興銀の某理事を旦那に持っていた。そのころ、義兄・菅原通済が主宰する鉄道工業の代表取締役に就任して実業界に乗り出したばかりで野心と精力にあふれていた日野原節三はこれに目をつけて、興銀*理事から秀駒親子を円満に譲り受けた。
*興銀=復興金融公庫の貸し出しの窓口銀行
1948年9月1日付読売は「昭和電工疑獄 追及本筋に入る」の見出しで事件のまとめ記事を掲載し、秀駒の写真と併せてこう記した。
「日野原は着々、復興金融公庫と表裏一体にある興銀への食い込みを策し、興銀理事K氏の愛妾だった元新橋芸者・秀駒こと小林峯子さん(29)までわがものにし、彼女の顔で興銀に食い込んだといわれる」
菅原通済は鉄道事業、不動産開発などに暗躍した実業家、フィクサー。実業界引退後は「三悪追放運動」を主導するかたわら、『東京暮色』(1957年)をはじめ、小津安二郎監督の映画などに出演。粋人の脇役を演じた。異母妹が日野原の妻だった。
派手な贈賄工作の舞台の女主人に
「秀駒という女」によれば、母親は上海に渡ってダンサーをしているうち、銀行支店長と知り合って結婚。終戦後、日本に引き揚げて、秀駒が愛人になっているのを知り、日野原を頼った。夫婦ともども引き取られ、夫は昭電疑獄が表面化したころ、昭電の会計課長として日野原の腹心になっていた。「秀駒には杉並に家があてがわれ、連日パーティーと称する招宴が張られる。出入りする客は外人が多かったという」(同記事)。
日野原が後ろ盾にしていたのはGHQの中でもGSやESS(経済科学局)だった。「永福荘」と名づけられたその別宅は1階が5部屋、2階が2部屋の美しい邸宅で、荒垣秀雄『現代人物論』(1950年)が“贈賄魔”と呼んだ日野原の派手な接待工作の舞台に。元秀駒の峯子はその女主人となった。一審判決でも、被告となった興銀理事2人が1946年12月下旬、「司令部(GHQ)経済科学局某係官と杉並区和泉町所在の小林峯子居宅(「永福荘」)に招いて会食した際、(日野原)自らもその席に列して……」などと認定されている。
沢敏三『昭電疑獄の全貌』(1949年)は「秀駒はスラリとした美人。英語も話せるというから相当な代物らしいが、彼女は週に1回、豪華な自動車で結髪に行き、チップを1万円(現在の約10万円)置いたという話もあり、酒も浴びる(ほど飲む)方という」と人物像を描いている。

