今回取り上げるのは、ロッキード事件(1976年摘発)以前は「戦後の二大疑獄*」と呼ばれた2つの事件。ここには、同じ芸名で2人の女性が登場する。「秀駒」と名乗った彼女らは、事件の渦中で何を考え、その存在にはどんな意味があったのだろうか。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の3回目/はじめから読む)
*疑獄=政治問題としてとりあげられるような、大規模な贈収賄事件
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造船疑獄に登場する「秀駒」は近代的で自己表現の意識が強く、メディアへの露出も多い。しかし、本名・中田節子とされているだけで、彼女の半生についても資料は少ない。芸者を廃業した後、「主婦と生活」1954年7月号に載った「わたしは、なぜ芸妓をやめたか」という手記をベースに、資料*をつきあわせてまとめると――。
*「婦人生活」1954年7月号の伊賀逸兵「汚職事件に躍らされた 話題の女性 芸者秀駒の結婚秘話」、「人物往来」、同年12月号の佐山茂「秀駒放浪記」
経済的にも精神的にも恵まれなかった
〈母親は秋田の農家の生まれで、昭和の初め、上京してカフェーの女給をしていた。店に足しげく通う客の男と恋仲になり、尾久で同棲。3人の子どもが生まれたが、末っ子の節子以外は病死。日中全面戦争が始まった翌年(1938年)、男の浮気から母は喧嘩別れし、子連れの女中として尾久の旅館で働いた。
母子はそれから栃木・足利へ。そして北海道(室蘭か)に渡り、そこで“再婚”した。男は土建業とも木材の関連業者だったともいう。手記では、酒乱で酔って母をいじめるので、節子は助けを求めて隣家に駆け込んだこともあるという。継父は仕事に失敗。3人で郷里の新潟(三条か)に移った。しかし、継父の酒癖はますます悪化。母は思い余って離別を決心し、母子で東京へ舞い戻った。節子が18歳の時だった。〉
「平凡」とは縁遠く、経済的にも精神的にも恵まれなかった生まれ育ち。手記では「5つの時に父と生き別れ」と書いており、その通りだと1933年生まれ。造船疑獄の時は21歳ぐらいで、本人の話とも符合するが、あまりの若さに驚く。

