〈母は以前働いていた旅館に女中として節子とともに住み込んだ。節子は仕事が見つかるまでお手伝いをしていた。ある日、化粧品の外交員が来て節子をモデルにいろいろ化粧をして見せていたが、その外交員と母が「お化粧をちゃんとすればとてもきれいじゃありませんか。こんなふうにしておくのはもったいないですよ」「じゃ、どっかいいところにお世話してください」と話した。その外交員の紹介で築地の料亭に働きに行くと「お座敷へ出てくれ」ということで初めてパーマをかけた。その料亭の女中から赤坂の芸者置屋・松田(屋)を紹介された。〉

笑顔の「秀駒」こと中田節子(「婦人生活」より)

「貧しい小娘が、きょうは孔雀のように着飾って」

 このあたりは手記の言うままだが、実際はもっと複雑な事情があったようにも思える。松田の女将は節子を気に入り、「養女にしたい」と言ったが、母は反対したという。かつての芸者置屋などでは芸妓を養女にすることがよくあった。ここから後は手記「わたしは、なぜ芸妓をやめたか」に従おう。

 芸妓修行の第一歩は、まず赤坂という花柳界の空気を身につけること。そのため待合へ見習いにやられました。お座敷での芸妓の在り方、お客というものの扱い方、いろいろな花柳界のしきたり……。そうしたものを1カ月でにわか仕込みで仕込まれ、(昭和)26(1951)年の秋、私は「秀駒」という名のニューフェースの芸妓となったのです。

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 昭電疑獄の「初代秀駒」と違って芸事の修業経験もほとんどない“アプレ芸者”だった。「秀駒放浪記」は「秀駒という名を付ける時、松田の女将は、昭電事件で名を売った一世秀駒にあやかり、政治家、財界人を手玉に取るように、という気持ちがあったかどうかは研究の要があろう」とした。

 きのうまでは色あせた着物を着て、食べる心配さえしていた貧しい小娘が、きょうは孔雀のように着飾って、出入りも車(人力車)か自動車に乗る身になったのですから、少しは得意げであったようです。

 

 おまけにお座敷に行きますと、そこでは一流の政治家、財界の大立者といった人たちからもちやほやされるんですもの。一層頭はのぼせ気味です。新聞の写真でしか見ることのできなかった偉い方たちと酔って歌って、心安く冗談を言い合ったり……。その人たちが翌日の新聞では日本の政治や経済を動かしているお偉方として登場してくるのですもの。芸者風情であることを忘れて、なんだかこっちも偉くなったような気持になったりしました(「手記」)。