「二人の秀駒」は次のように述べる。

 (初代)秀駒という女は、日野原にとって最も有力な“持ち駒”となった。彼は「ボロ会社を立て直す名人」とうたわれ、鉄道工業から昭和化成、日本水素と次々手に入れて、ついに森コンツェルンの本拠・昭和電工を陥れるに至ったのだが、その裏で秀駒の果たした役割は計り知れないものがあった。彼女の美貌と洗練された客扱いは、金融界において、進駐軍関係において、日野原のために突破口を切り開いて行った。

 

 彼の異常な躍進も、またその没落も彼女に負うところが大きかった。

臨床尋問を受ける初代「秀駒」こと小林峯子(『画報現代史2』より)

 一方の「二代秀駒」は「ある座談会で一度見たことがあるが、一見お嬢さんのように初々しい」と言い、「彼女を巡る男のうわさはいちいち数えきれないほどである」としたうえで2人を比較した。

 かように、前の秀駒が「オンリー」的だったとすれば、後の秀駒は「バタフライ」的である。

家・舟橋聖一は「二代目秀駒」と面識があり、新聞にエッセーも書いた(朝日新聞より)

2人の秀駒は、躍ったのか踊らされたのか?

 時代の違いもあるだろう。わずか6年の差といっても、昭電疑獄の時は占領下でGHQの存在が大きかった。それに対して、造船疑獄は独立後で、現在の自民党が生まれる保守合同の直前。政党間の権謀術数が激しかった。その中で2人の秀駒は躍ったのか踊らされたのか――。

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「政界往来」1954年4月号の対談で同誌の主宰者・木舎育三郎が「秀駒という女も、転々と相手が変わるからね。ああ変わっちゃイヤだね」と言うと、森脇将光は「あれは金絞りの名人だもの」と答えている。どちらも男の本音というべきか。

 一方、有泉亨・団藤重光編『法学新書 売春』(1955年)は、討論会のテーマの1つに「(二代目)秀駒事件」を取り上げている。節子が「松田」で「秀駒」になった時の前借金は7万円(現在の約50万円)だったとするなど、問題を売春、人身売買、搾取の視点から論じている。確かにそうした側面があったことは否定できない。

2人の「秀駒」(上が「昭電疑獄」の小林峯子、下が「造船疑獄」の中田節子)

 2人の半生を見て感じるのは「悲しい」ということ。その悲しみは彼女たちが貧しさをひきずっているからだ。貧困から抜け出し人間的な幸福を求めようと必死に生きたことは誰も責められない。峯子と日野原のように、限定的でややゆがんだ形でも「愛」は存在したのかもしれない。ただ、2人の秀駒に要人の「旦那」と一体感を得て、同じ風景が見えたように思っても、それは陰画でしかない。

 日本人全体が長い間抱えてきた貧困と、日本社会に根強い家父長制に基づく男性優位社会という問題が彼女たちに大きくのしかかり、運命を左右したといえる。それから70年以上たったいまも、薄れたとはいえ、根本的な構図は変わっていないのではないか。


【参考文献】
▽田中二郎・佐藤功・野村二郎編『戦後政治裁判史録1』(第一法規出版、1980年)
▽三鬼陽之助『経済事件の主役たち』(サンケイ新聞社出版局、1968年)
▽荒垣秀雄『現代人物伝』(河出書房、1950年)
▽朝日新聞社警視庁担当記者団編『警視庁』(東洋経済新報社、1954年)
▽日本近代史研究会編『画報現代史2』(日本図書センター、2000年)
▽日本近現代史辞典編集委員会編『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社、1978年)
▽伊藤栄樹『秋霜烈日―検事総長の回想』(朝日新聞社、1988年)
▽山本祐司『東京地検特捜部』(現代評論社、1980年)
▽沢敏三『昭電疑獄の全貌』(みえ書房、1949年)
▽森脇将光『風と共に去り風と共に来りぬ第3部(疑獄篇前篇)』(安全投資出版部、1955年)
▽有泉亨・団藤重光編『法学新書 売春』(河出書房、1955年)

最初から記事を読む 「スラリとした美人」「指にはダイヤが」18歳で人気芸者→社長の愛人に…大汚職事件で日本中から注目された「初代秀駒」とは何者だったのか?