事件発覚から1年余り前の「オール讀物」1953年新年特別号は正月企画として、職業女性を対象にした「プロ・ミス日本」を発表。「秀駒」は「次席第1位」(準「プロ・ミス日本」)に選出された。審査員の1人、映画監督の山本嘉次郎は「審査風景」でこう書いている。

「オール讀物」(1953年新年特別号)の「プロ・ミス日本」で「秀駒」は「次席第1位」に

「漆で菊模様の地紋を浮かべた和服。背がスラリと伸びている。『背は何寸あるの?』。(審査員で声楽家の)佐藤美子さんが尋ねると、『(5尺)3寸(約160センチ)です』と小さく答えたが、見る見る白い肌が上気してポーッと桃色に染まった。この若さの含羞(はじらい)が審査員の印象を強めたらしい」

 そうした話題も後押ししたのだろう。「芸者秀駒の結婚秘話」は「名前が人気を呼んで、政界人や財界人たちの宴席には決まって『秀駒を呼んでくれ』とお座敷がかかった」としている。ただ、芸者として大きな難問があった。

ADVERTISEMENT

 私が芸妓として一月に働くお金は大体12~13万円(現在の約81万~88万円か)だったと思いますが、着物やお小遣いのことを考えると、とても足りるはずはありません。そこに自然と出てくるのがパトロン、つまりダンナの存在であります(「手記」)。

3人の旦那を持って……

 手記によると、最初の旦那は「Nさんという代議士」だったが、「年齢の壁、性格の違い、好きになれないくせに、はっきりと拒絶することもできず、お世話になることになったのです。これが花柳界の姿なのだという諦め、それに私も引きずられて1年半も過ごしてしまいました」。とうとう我慢ができず別れ話に。そのころ、ある会社社長で好きな人が現れたからだった。

「オール讀物」(1953年新年特別号)に載った秀駒(一番左)

 しかし、松田から200万円(現在の約1300万円か)という条件が出たことから、社長との話は頓挫。次の旦那は「M」(会社社長)。100万円(約650万円か)で話がついたが、松田の女将が2000万円(同約1億3000万円か)の金融を申し入れたのが不調に終わり、2カ月で「金の切れ目が縁の切れ目」に。それが去年(1953年)9月のことだった。正月が目の前に迫ってきて50万~60万円なくては年が越せない。そこへ「Y汽船のYさん」から「世話してやろう」と話があって3人目の旦那を持つことになった。

 すると2月ごろから、あの汚職問題が新聞紙上をにぎわすようになり、しかもMさんもYさんもその渦中の人だったので、「汚職の陰に躍る女」などといわれ、私が汚職に一役買っているかのごとくうわさされるようになったのです(「手記」)。