“色物”として取り上げられた
新聞、雑誌も疑獄報道の“色物”として彼女を取り上げた。1948年10月3日付東京の「昭電疑獄をめぐる日野原行状記」は、「常に風呂敷に30万円(現在の約308万円)ぐらいの現ナマを入れて持ち歩いている」「2億円(同約21億円)もの骨董を買いあさり、業界にインフレを巻き起こした」といったうわさと並んでこう書いている。
毎朝5時に起きて朝食まで1里(4キロ)ぐらい駆け足体操を欠かしたことのない日野原は、その贈賄ぶりと同様精力家で、宴会その他に飛び回るほか、妾宅を通じる連絡にも特に綿密だったといわれ、彼と興銀被告のグループは昭和財界の“肉体派”と呼ばれていた。
別宅の主、元新橋芸妓「秀駒」こと小林峯子さん(28)は当局の取り調べを受けて帰宅して以来、門を閉ざして一切外部との面会を避けている。しかし、元は(費用)400~500万円(現在の約4100万~5100万円)の豪華な招宴場となっていたこの家は、いまは隠れた連絡場所として使用され、小林さんは妹分の芸者を仲介者として、既に検挙された大物連の妾宅との連絡や、その後の運動に当たっているといわれている。日野原社長には妾専門の秘書が1人おり、“女だけの都”に差し伸べられたこの1本の男の手が、妾宅関係方面の操縦に当たっている。
読売と年齢が違うが、確かめる手立てがない。日野原だけでなく、このころの政・官・財の間の接待工作=「宴会政治」はすさまじいものがあった。新聞報道を見ても――。
1. 日野原への融資のうち、使途不明金の約2億円(現在の約21億円)は宴会などに遣われた=1948年9月1日付読売
2. 昭電は麻布にあった田中武雄・元運輸相の“天ぷら御殿”と呼ばれた別宅でも前年(1947年)8~12月に計27回、宴会を行い、その総額は「ざっと50万円(同約510万円)」=10月2日付読売
3. 前年(1947年)秋に福島の温泉で2回、盛大な宴会が開かれ、席上、日野原から呼ばれた持株整理委員会(戦後、財閥解体の実施に当たった特殊法人)の委員長が裸踊りを披露。日野原が「話の分かる男だ」と言っていたと聞いた(同委員会委員の国会証言)=11月8日付読売
朝日新聞社警視庁担当記者団編『警視庁』(1954年)は、昭電疑獄捜査の端緒について「日野原社長が新橋、赤坂などの一流料亭でかつてなかった大尽遊びを続けているという風評が刑事の耳に入り、うわさをたぐっていくうちにヤミ流し事件がひっかかったという話である」としている。このころ、峯子が「鳥尾夫人」こと鳥尾鶴代を訪ね、鶴代と恋愛関係にあったケーディスGS次長に取り次ぎを頼もうと札束を出して断られ、泣き崩れたと鳥尾夫人の著書にある。
ただ、ケーディスの帰国後、鶴代が恋に落ちたとされる相手は、日野原の前任で公職追放された昭和電工社長の実弟。偶然とは思えない。前社長は「日野原に会社を乗っ取られた」と国会で証言しており、この点では峯子と鶴代は「敵同士」。嘆願が受け入れられるはずはなかっただろう。


