引き出しにはバッグや着物がぎっしり、指にはダイヤが輝き……

「小林峯子」は新聞などによって「小林峰子」「小林峰」の表記があるが、1952年10月の東京地裁一審判決に従って「峯子」で統一する。同じ24日付時事新報は「秀駒こと小林峯子宅」と書き、東京新聞は「杉並区内の同社長寓居(ぐうきょ=仮住まい)」と表記。当局が日野原社長の所在先と把握していたことが分かる。

「文藝春秋」1952年6月号掲載の木戸謙介「秀駒といふ女」によれば、捜索に当たった刑事たちは、峯子の持ち物の豪華さにあっけにとられた。タンスの引き出しを開けると、ハンドバッグがぎっしり詰まっており、次の引き出しには着物の帯がいっぱい。

 毎年新橋演舞場で開かれる「東をどり」を見物に行く「秀駒」の指に輝くダイヤの指輪は、かつての朋輩たちの羨望の的だったという。山本祐司『東京地検特捜部』(1980年)によれば、指輪の金額は50万円(現在の約510万円)。「『ああ、夢でもいいから、あんな生活がしたい』という、捜索に行った捜査官のつぶやきが残っている」(同書)。

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※写真はイメージ ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 ただ、「秀駒」こと小林峯子の実像について書かれたものはほとんどなく、最も詳しい「秀駒という女」に頼るしかない。

「きっといい芸者になるよ」

 幼年時代は恵まれなかったようだ。父親と早くに死別。彼女を頭に3人の子どもを残された母親は、生活の道を求めて単身上海に渡った。妹と弟は埼玉県の母の実家に預けられたが、峯子だけは浅草の芸妓屋へやられた。彼女は7~8歳だった。その頃から彼女の美貌は人目をひき、「峯ちゃんはきっといい芸者になるよ」というのが近所の評判だった。

 

 芸妓屋の主人も彼女をかわいがって「浅草に置くのはもったいない。宝も埋もれてしまう。芸者はやはり新橋だ」と言うのが口癖だった。彼女もその気になって芸事に精進。「一本」になって待望の新橋に進出したのは18歳の時だった。お披露目は元の主人が全て引き受けてくれた。

 

 当時の新橋でも彼女の美貌はひときわ目立ち、たちまち売れっ子の1人に。1年足らずで「旦那」もついた。興銀(日本興業銀行)の理事で金離れもよく、いい旦那だった。彼女の希望で銀座裏に芸妓屋を持たせてもらいながら、相変わらずお座敷勤めは続けた。派手好きな性格で、酒席にはべるのが好きだったという。間もなく女の子も生まれた。