「私は疑獄の陰で躍る女ではない」

私は疑獄の陰の女ではない 秀駒“廃業”の弁

 

 造船疑獄の渦中に“森脇メモ”で浮かび出た赤坂芸者「秀駒」こと中田節子さん(21)はその後、世間の目から身を隠し、一時は失踪説さえ出ていたが、このほど花柳界から身を引くことを決心し、7日午前、(東京都)港区赤坂青山高樹町、劇作家・菊田一夫氏宅でその心境を語った。菊田邸にはカメラマン、録音班ら報道陣十余人が駆けつける騒ぎ。さすが“疑獄の陰に躍る女”だけのことはある。

 

 彼女は(昭和)26(1951)年8月、赤坂の置屋「松田」から芸者に出た。「華やかな生活になんとなくあこがれた」ためだったという。芸者として一本立ちしていくには莫大な費用がかかる。彼女が“持った”旦那には幾人かの政財界の有名人があった。そういう生活に彼女が疑問を抱いたのは、疑獄事件が表面化するにつれて自分の名までが世間に出るようになってからだった。古い風習に縛られたまま、自分では何も知らずにいたところに、自分の存在を浮き彫りにされてみて、初めて生活を反省したのだそうな。

 

 4月初め、彼女は花柳界から引退するつもりで「松田」を出た。たまたま菊田一夫氏の戯曲「芸者秀駒」の帝劇上演問題が起こった時なので、彼女は菊田氏を訪ね、同氏の勧めもあってはっきり決心をつけた。秀駒はさらに言う。

造船疑獄の証拠として押収された書類(『国会画報』より)

「あまり申し上げたくありませんが、私が“陰で躍った女”などと言われることだけは心外です。私はお商売のこと以外、何も知らなかったのです。知らない間に金で体をやりとりされていたのが嫌になったのです」。取り囲んだ記者の矢継ぎ早の質問にいくらかドギマギしながら控えめに語る彼女には“疑獄の人”を操るほどの知略のひらめきなどみられない平凡な女である。今後は「地味な堅い商売」を望むと言っているが……。

 本人ははっきり否定しているのに、「“疑獄の陰に躍る女”だけのことはある」と書くのは相当な意地の悪さだが、当時の社会面記事は記者の独断を書いていたのだろう。菊田の戯曲『芸者秀駒』は同年4月に帝国劇場で上演の予定だったが、舞台化が報じられると赤坂の料亭(「中川」か)が猛烈に反発。東宝重役らの「いまは上演の時期でない」との判断で上演が延期されていた。

芸者廃業を発表した「秀駒」(毎日新聞より)

 会見での発言でも分かるように、造船疑獄の「二代目秀駒」は昭電疑獄の「初代」に比べ、近代的で自己表現の意識が強く、メディアへの露出も多い。しかし、本名・中田節子とされているだけで、彼女の半生についても資料は少ない。芸者を廃業した後、「主婦と生活」1954年7月号に載った「わたしは、なぜ芸妓をやめたか」という手記にも不明確な部分がある。

 手記をベースに「婦人生活」同年7月号の伊賀逸兵「汚職事件に躍らされた 話題の女性 芸者秀駒の結婚秘話」と「人物往来」同年12月号の佐山茂「秀駒放浪記」とを突き合わせてまとめると――。

次の記事に続く 「彼女をめぐる男の噂は数えきれないほど」上京して芸妓になり、21歳で3人の“旦那”を…戦後の二大汚職事件、渦中にいた“2人の女”の悲しい運命