尋問は30分足らず。毎日は布団にあおむけになって手で顔を覆っている写真を添えているが、朝日新聞、読売、時事新報、東京タイムスは、布団から体を起こして横顔を見せている同じ写真を掲載。その写真は『画報現代史2』(2000年)にも載っている。代表撮影か参院法務委提供か。結局、この検察の疑惑はうわさに終わったようだ。
日野原は最高裁まで争ったが、事件発覚から14年後の1962(昭和37)年4月、懲役1年執行猶予5年の判決が確定した。この疑獄は最終的に実刑が1人もいないという結果。
峯子は地味な姿で「振り返る人もない」
その後の峯子については1959(昭和34)年7月5日付朝日朝刊の「あの人はどうしている ニュースのその後 昭電疑獄の人びと」に消息が載っているのが最後と思われる。
日野原氏の愛人と騒がれた赤坂(新橋の誤り)の「秀駒」小林峯子さんは東京都杉並区和泉町の住まいで娘、女中の3人暮らし。毎晩自家用車が並び、3000万円の宴会費が遣われたというこの屋敷もいまはひっそり閑。地味づくりの散歩姿を振り返る人もない。日野原氏の世話で、伊豆で旅館の経営をしているといううわさもある。
一方の日野原は実業界に復帰することなく1991(平成3)年12月、88歳で死去した。三鬼陽之助は「文藝春秋」1967(昭和42)年12月6日号掲載の「昭電疑獄が残した腕時計」の中で、逮捕後、保釈された日野原と峯子と3人で会食した後のことを記しており、日野原と峯子の関係がうかがえる。
その夜の帰途、日野原を真ん中に、左右に「秀駒」と私は自動車に乗った。私は仮睡した。ふと、車の動揺で目を覚ますと、美しい「秀駒」は久々に会ったためか、日野原の肩に寄り添い、しかも、その手を相手の膝の上に落としていた。そして、ふと見ると、目にいっぱい、涙をたたえていた。


