検事1人が50人余の芸者取り調べ
のちに検事総長を務め「ミスター検察」と呼ばれた伊藤栄樹は『秋霜烈日―検事総長の回想』(1988年)で造船疑獄捜査のことをこう振り返っている。
そのころ、「N」(「中川」のこと)に出入りしたことのある赤坂芸者は全部で150~160人だったと記憶する。2人の検事の応援を得て3日間で調べを終わることにし、まず検番でもらってきた芸者名簿に基づいて、順に3人の検事に振り分けていく。
こうして1人が50人ちょっとの芸者を調べることになった。場所は検事3人別々に“都内某所”である。朝から調べて、午後も時間が経過してくると、おしろいや香水の匂いが部屋に立ち込めて頭が痛くなってくる。それはともかく、年を取った芸者の口の堅いことは大変なものである。「桂(太郎)大将にごひいきになった話」などがとめどなく出てきて、全く本筋の話にならない。そこで、もっぱら若い芸者を口説くことにした。
2月1日付朝日の「政治はなぜ腐敗するか」の座談会では、都留重人・一橋大教授が「私は日本特有の料飲店の繁盛が政治腐敗の1つの原因であり、指標ではないかと思う。政治の腐敗には料飲店の供応がつきもので、これは中央、地方通じて全部そうだと思う」「日本における政治に限らず、社会関係の中に必要だとみなされている。いわば一種の潤滑剤のような性格になっている」と、接待政治は日本社会の問題であることを指摘した。
「人こそ違いますが、秀駒という者が活躍しておるわけです」
こうして造船疑獄でも宴会政治が話題になった中で「スター」に祭り上げられたのが赤坂芸者の「秀駒」、本名・中田節子だった。その名前は衆院決算委で参考人の森脇将光の口から飛び出した。
「昭電事件の時は秀駒が登場し、今度は人こそ違いますが、やはり秀駒という者が登場して活躍しておるわけです」
森脇が1955年に出した『風と共に去り風と共に来りぬ第3部(疑獄篇前篇)』には「森脇メモ」と同一と思われる宴会記録が収録されているが、1953年11月中旬から「芸妓」の欄でなく「出席者」の欄に「秀駒」の名前が頻繁に登場する。そうして「芸者秀駒」は世間に広く知られるようになった。
「人物往来」1954年12月号の「今年最も活躍した人々」のアンケートで、朝日の1面コラム「天声人語」の筆者・荒垣秀雄と、読売「編集手帳」の高木健夫はそろって「秀駒」を挙げ、荒垣は「汚職に咲いた花。おかげで売り出しに映画まで提灯持ち」、高木は「注釈不要」と付記した。しかし、その彼女は造船疑獄捜査で法相の指揮権発動が行われた*約半月後の5月7日、記者会見で芸者廃業を発表する。同日付毎日夕刊の記事全文を見る。
*1954年4月21日


