明治時代の町村制施行後は後免町という自治体になった。1959(昭和34)年、野田村など4村との合併で南国市になったが、現在も「後免町」の住所は残る。

 やなせさんがここで過ごしたのは1926(大正15)年から約10年間なので、南国市になる前の後免町の時代だ。

 住んだのは父の兄・寛さんが開業した「柳瀬病院」だった。父は赴任先の中国で客死、母も再婚して、弟が先に養子になっていた寛さん宅へ引き取られた。

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 当時の後免町は、舟運が廃れても、新たに後免駅ができるなど鉄道網の結節点となり、賑わいを見せていた。患者の来院に便利で、後免町商店街も発展していく。

後免町商店街はシャッターを閉じた店が目立つようになり……

 しかし、やなせさんが後免野田小学校の児童達から手紙を受け取った2002年、後免町商店街はシャッターを閉じた店が目立ち、以前のような賑わいはかけらさえなかった。

手紙を送ってくれた子供達に囲まれたやなせたかしさん

 心を傷めたやなせさんは、後免町のために知恵を出す。大きく分けて二つの提案だ。

 一つは「ハガキでごめんなさい全国コンクール」の開催。

 後免町と「ごめん」を引っ掛けた、ダジャレ好きなやなせさんらしい発想だ。人には必ずといっていいぐらい言いそびれた「ごめんなさい」がある。そうした内容をハガキに書いて「ごめん町」に送ってもらおうというのだった。

 これは徳久さんが中心になり、地元住民が「ごめん町まちづくり委員会(西村太利会長)」を結成して実現させていく。キャッチフレーズは「優しい心になれる町ごめん」。やっぱり「優しさ」がキーワードだ。詳しい経緯は別の原稿で報じてあるので、ご覧いただきたい(「ごめんの町」で「ごめんなさい」を言う #1~#7)。

 徳久さんはそれまでに一度、やなせさんに会っていた。

 高知県が公設民営で設立した高知工科大学(本部・高知県香美市)が開学した1997年のことだ。南国青年会議所の理事長として活動していた徳久さんは、「大学は市街地から入った方に設けられたので、県民はなかなか行く機会がない。親しみを持ってもらうためにも、番組で取り上げてほしい」とNHK高知放送局に直談判した。南国青年会議所は南国市だけでなく、香美市や香南市もエリアにしていた。