小学生がライオンの石像を「見つけた」のをきっかけに、少年時代に約10年間過ごした故郷との交流が始まった漫画家の故やなせたかしさん(1919~2013年)。高知県南国市の後免(ごめん)町の人々と協力し、寂れたまちの復活に様々な知恵を出していく。昨年度で第21回を数えた「ハガキでごめんなさい全国コンクール」の実施。女性達が苦労して製品化にこぎつけた「ごめんのごめんしょうが飴(あめ)」の発売。ほかにも多くの案が実現していった。約70年ぶりに84歳で母校の小学校を訪れた後のやなせさんは、残りの人生をかけて郷里に尽くす。
第三セクター・土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」の「後免町駅」に「ありがとう駅」の愛称がついたのは2004年7月。やなせさんが母校の後免野田小学校にグランドピアノを寄贈し、お披露目の「アンパンマンコンサート」を開いた年のことだ。
後免町は三つの鉄道・路面電車が交差する要衝の地だが、JR土讃線「後免駅」、路面電車のとさでん交通「後免町駅」もあって紛らわしかった。このため、「愛称で分かりやすくしてはどうか」とやなせさんは考えたのだが、背景には「ごめん」と「ありがとう」は響き合う関係にあり、「人生は喜ばせごっこ」と考えた人生哲学がある。
そのことを文字に込めた「ありがとう駅」の詩碑が、愛称の決定から1年半後の2006年1月、ごめん・なはり線「後免町駅」の駅前に設置された。
後免町の女性達で作る「ごめん生姜(しょうが)アメ研究会」(約10人)は、リーダーで「はちきん」(快活で姐御肌の女性を指す高知弁)そのもののような存在だった中村朋子さんを病気で失っていたが、「ごめんの飴の次は、ありがとうの煎餅(せんべい)だ」と、次の商品作りに乗り出した。
そして翌2007年に「ありがとう煎餅」を発売した。「ありがとう」という文字の焼き印を作り、菓子店に依頼して生姜入りの煎餅を手焼きしてもらったのだ。「焼き上がった製品の端を切り、袋詰めするのはメンバーで、皆さん本業があるのに大変な作業でした」と徳久衛(とくひさ・まもるさん)(64)が語る。徳久さんはライオンの石像についてクラスでやなせさんに手紙を書いた当時の小学5年生の保護者で、やなせさんが発案した「ハガキでごめんなさい全国コンクール」の実現では中心になっていた。

