「やなせ先生は後免町が元気になってもらいたいという気持ちがあったから、商店街に『やなせたかしロード』という自分の名前をつけることを快諾してくれました。ごめん生姜地蔵についてもそうです。子供の頃、すごく賑やかだった商店街が、商店街とは言えないような状態になっている。もちろん商店街としての再生は難しいでしょうが、それでも人々がにこやかに歩き、周遊できる市街地になればという思いがあったはずです」
だからこそ広く知ってもらいたかったのである。
2009年10月3日、ロードの完成や地蔵の除幕式に駆けつけたやなせさんは90歳になっていた。ごめん生姜地蔵の横に立ちVサインで撮影に応じた。
「やなせたかしロード」の後日譚
それだけではない。生姜に関しては、「生姜音頭」を作曲し、イラスト入りのピンクの浴衣や手拭い、靴下などを自作して「使いなさい」と送ってくれた。例えば、手拭いはやなせさんが2000枚を作成。やなせスタジオの取り分は100枚だけで、残りの1900枚は後免町に送った。「私達が頼むのではなく、自発的に作って送ってくれるのです。やなせ先生は一生懸命な人には徹底的に寄り添い、手を抜かないという気持ちがすごく強い人でした」と徳久さんは語る。
「やなせたかしロード」については、後日譚がある。
除幕式が行われた翌月の11月中旬、後免町商店街の中ほどにある「ばいきんまん」の石像の角が片方折られた。
隣で美容室を経営する筒井由(つつい・よし)さん(62)が振り返る。
「あの日は、やはり美容師の娘が関西で開かれる全国大会に出場するため、午前3時ぐらいに起きて2人で準備をしていました。すると、外でドンドンと鈍い音がしました。窓を開けると、娘が『かさかさと足音がする』と言います。でも、誰もいません。窓を閉めたら、またガンガンという鈍い音がして、最後はドスンと聞こえました。再び窓を開けると、2人組が高齢者のような歩き方で角を曲がっていきました。グレーのジャージを着ていたのを覚えています。

