しかし商品化は順風満帆とは言えなかった
息子の文彬(ふみあき)さん(33)は当時、ライオンの石像について尋ねる手紙をやなせさんに書いた小学校のクラスにいた。「ライオンの石像に関する出来事はかなり記憶が薄れていますが、両親がやたら忙しくなったことだけははっきり覚えています」と話す。
実は徳久さんが「はがきでごめんなさい全国コンクール」のまとめ役になったのも、中村さんに「やってほしい」と頼まれたからだ。「やなせ先生に手紙を書いたクラスに息子がいましたし、中村さんに言われたら『やらなきゃ』という感じでした」。
飴の開発は難行した。
材料は大根、生姜、黒糖だ。可能な限り地場産にこだわった。切ったり擦ったりして煮詰めていくのだが、「水分が多いと歯にくっついてしまいます。やれ差し歯が取れただの、やれ銀歯が取れただのという“被害者”が続出しました。それでも高知県工業技術センターでアドバイスをもらいながら試作品を作りました。やなせ先生に送って『これでいいよ』とOKをもらい、工場を持っている製菓会社に委託して製造しました。原料は持ち込みです。大根、生姜、黒糖をそれぞれ鍋で煮詰め、真空パックに入れて製菓会社に届けます。研究会の女性達は仕事を持っていたので、駅前に借りた作業所にや夜や土日に集まりました」と、メンバーの苦労を徳久さんが代弁する。
こうして後免町の人々はやなせさんから提案を受けて1年も経過しないうちに成果を出していった。
2004年3月7日、やなせさんが後免野田小学校に寄贈したグランドピアノのお披露目を兼ね、同校体育館で「アンパンマンコンサート」が開かれた。飴はこの日に試作品の販売を行い、4月には「ごめんのごめんしょうが飴」と名づけて発売した。
「美味しかったです」。小学生の時ライオンの石像を「発見」した本人の山島孝仁(たかひと)さん(33)は今でも味を思い出す。
