やなせさんは同年8月、南国市の名誉市民になった。

 こうして、ライオンの石像発見に端を発したやなせさんと後免町の人々の地域起こしは成果を収めていった。

地域起こしの最中に起きた悲しい出来事

 そうしたさなかに悲しい出来事があった。飴を開発した中心人物で、仲間をぐいぐい引っ張っていた市議の中村朋子さんが同年11月に病気で亡くなったのだ。まだ63歳だった。

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「いきなりでした。最後まで後免町のまちづくりに一生懸命でした。私は『あとを頼むよ』と託されて……」。徳久さんはしんみり語る。

「中村さんには夢がありました。後免駅の近くにある県立高知農業高校の生徒が作った大根や生姜を飴の原料にしたかったのです。『学校まで巻き込んで、後免町のまちぐるみで地域起こしができたら素敵だね』と話していました。単に飴を売るのではなく、一粒一粒に意味を持たせたいと考えていたのです。これは実現しないまま亡くなってしまいました」

「ありがとう駅」の愛称がつけられた「後免町駅」の前には、その後の南国市制50周年を記念して「ごめん生姜地蔵」が建立された。脇には大きな説明板がある。やなせさんと地元の人々が取り組んできた地域起こしが詳しく記されていて、末尾に「南国市とやなせたかし先生の橋渡し役として、また、ごめん生姜アメ研究会を立ち上げ、命をかけて南国市発展のためにご尽力いただいた故中村朋子市議会議員のご冥福を心からお祈り申し上げます」と添えられていた。

 文面は徳久さんが「ありがとう」の気持ちを込めて書いた。

撮影 葉上太郎

次の記事に続く やなせたかしロードの命名、ごめん生姜地蔵の建立。音頭や浴衣、手拭い、靴下まで作り…故郷の「一生懸命」に応えた、やなせたかしさん最晩年