1966年9月1日付の読売新聞にこんな記事が掲載された。

〈7月24日午後6時ごろ、群馬県多野郡の自動車修理工・上野研二さん(仮名・34歳)が軽トラックに乗り、同県高崎市宮元町の市道を時速10キロ程度で運転中、反対方向から歩いてきた10歳ぐらいの少年が、急に上野さんの車に近より、左側ドアの引き手に腕をひっかけ転倒した。この事故で、上野さんは、幼児を抱いていた母親と称する35歳ぐらい(※実際は27歳)の女と一緒に少年を近くの病院に収容。少年は左腕と胸を打ち1ヶ月のけがと診断され、また届け出で高崎署は同夜、現場検証を行った。その直後、父親と称する男が現れ、示談金10万円を要求、上野さんは金策にかけまわり6万円を用意、翌25日午前6時ごろ、高崎駅構内で渡したが、少年は入院もせず、男と一緒だった〉

 手口は概ね記事のとおりで、一家は大森の地元・高知を皮切りに、南は九州、北は北海道まで全国数十県を“行商”と称して周り犯行を繰り返した。劇中で竹子が口にしていたように、狙うのは「スピードを出していないライトバンか軽4、できれば車体に商店名が入った車で、ドライバーが女性」で、手頃な車が近づいてきた途端、敏男が路上に倒れ、そこにチビを抱いた竹子が現れ激昂、運び込まれた病院に大森が登場し、竹子の不注意を咎めドライバーに罪悪感を植え付けたうえで、約10万円程度の示談金をせしめるのが通常のやり方だった。

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車にぶつかる前に「子どもに打撲を負わせる」理由とは…

 さらにあくどいのが、事前に大森が敏男に意図的に1週間程度の打撲を負わせ、傷を診た医師が怪しまないよう偽装工作を図っていた点だ。この場面は劇中でも再現されているが、敏男は病院でウソをつくのが苦痛で、あるとき本当に怪我を負った際には、演技をしなくて済むことに心から安堵したそうだ。

 ちなみに、この間、敏男が当たり屋行為に嫌気がさし何度も家から逃げ出したものの、結局行き場がなく一家のもとに戻ったことも、竹子が敏男の継母であることにコンプレックスを抱いていたのも劇中で描かれるとおりである。

 事件の終わりはあっけなかった。

次の記事に続く 父は行方不明、母は子宮がんで死去、残された息子は…全国47箇所で交通事故を偽装「当たり屋家族のその後」(昭和41年)

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