享保5年(1720)。美作(みまさか)国高円(こうえん)村、那岐山(なぎさん)にある古刹菩提寺(ぼだいじ)。境内には幼少期に修行した法然が植えたというイチョウの巨樹がある。そこへ将軍徳川吉宗から命令が届く。「イチョウから、摺木(すりき)のごとき『こぶ』のついた枝葉を伐採して献上せよ」。罰が当たると怖がったが、くじ引きで選んででも伐採せよとの将軍直々の厳命に、村人は……。
なぜ吉宗は「こぶ」を欲しがるのか。なぜ村人は抵抗したのか。なぜこの不可思議な史料は残されたのか――。日本中世史が専門の瀬田勝哉さんは、新刊『木に「伝記」あり』で、この菩提寺のイチョウをはじめ、“木の事件史”を描く。
「たかが1本のイチョウに注目した、おかしな本ですが(笑)。イチョウを主役にした稀有な古文書に感動して、この享保の事件をきっかけに、木と人間の歴史を書きたいと思ったのです」
そもそも――摺木と形容された「こぶ」とは何かといえば、通称でも学問用語でも「チチ」、枝にある「チチ(乳)状の垂れ下がったもの」を指す。母乳の出がよくなると祈る信仰が日本全国にあり、削って煎じて飲む風習もあった。江戸の古川薬師安養寺のイチョウに、チチの削り取りを禁止する元禄3年(1690)の石碑が伝わることからも、チチ信仰が江戸で流行していたと見て取れる。
「でもこの史料は、チチの効用や信仰に一切触れない。吉宗が政策的に推進した本草学の観点では説明しきれない。むしろ天領の代官は珍奇なものに関心を持つ吉宗に取り入ろうとして積極的に動いたのではないか」
代官と村の庄屋の交渉で、「こぶ」と枝は伐り取られたが、その後史料の行方は知れない。ただ幸運にも、木の幹周約6.8メートル、「摺木」84本などの実測データが「吟味覚書」にまとめられていた。
「明治43年(1910)の計測で幹周は11.2メートル。190年で4.4メートル生長したので、6.8メートルになるには、単純計算で294年。つまり、1426年、幅を持たせて15世紀前半に、この木の発祥が推測できます。文献史料で確認できる最古のイチョウは、永徳元年(1381)、摂関近衛家の庭のイチョウを、足利義満が花御所に植え替えるため召し上げたという記録ですから、齟齬もありません。この時期は異国からの舶来物=唐物(からもの)を珍重する意識が高まるため、“植物の唐物”としてイチョウが扱われて、全国に広がったのでしょう」
イチョウがいつ日本に伝来し、広がったのか。歴史の視点から協力してほしい――。「植物学者堀輝三(てるみつ)さんから共同研究に誘われたことが、私のイチョウ研究のはじまりでした」と瀬田さん。
「堀さんは全国の500本以上の巨樹イチョウを奥さんと精力的に踏査し、詳細な分布図を作りました。青森に巨樹イチョウが多いのはなぜか、京都など畿内に少ないのはなぜか、と矢継ぎ早に質問されたものです」
瀬田さんも各地の巨樹イチョウを訪ねたが、イチョウそのものを語る文字資料は菩提寺のイチョウの他には見出せていない。その稀有な史料を伝える、郷土史家寺阪五夫の『美作高円史』を丹念に読み解いていくと、法然上人500年遠忌を機に、浄土宗の寺院と民間の人々がイチョウとともにいきいきと動きだすのが見えてくる。
「僕は木だけではなく、周囲を歩き、土地の人の話を聞きます。木を包む空間や時間を感じ取り入れることで、ある木の事件が、物語に、伝記になる。堀さんが亡くなって19年、本書は堀さんへの私なりの答えです」
せたかつや/1942年、大阪府生まれ。歴史家。専門は日本中世史および木の社会史・文化史。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。武蔵大学名誉教授。著書に『洛中洛外の群像』『木の語る中世』『戦争が巨木を伐った』、編著書に『変貌する北野天満宮』などがある。




