1995年、若者の日常会話をラップで歌ったEAST END×YURIの「DA.YO.NE」が大ヒットしたのを受け、全国各地でご当地タレントなどがそれぞれの方言に替えて歌ったバージョンもリリースされた。このうち博多弁による「SO.TA.I」を歌ったSOUTH END×YUKAは、当時福岡吉本に所属した鶴屋華丸(現・博多華丸)とおたこぷーに加え、このころモデルだった板谷由夏という顔ぶれであった。

同じ福岡県出身の板谷由夏と博多華丸(板谷由夏のインスタグラムより)

福岡出身、10代からモデルとしてキャリアをスタート

 リリースされた1995年4月の時点で板谷は19歳で、地元・福岡の短大に通いながら、すでにティーン誌の専属モデルとして活動しており、仕事のたびに上京していた。翌1996年の春に短大を卒業する際、母親から「仕事をすると決めたなら早く家を出て行きなさい」と言われたため、夏には東京に拠点を移すことになる。

 福岡と東京を往復していた駆け出しのモデル時代から30年。きょう6月22日、板谷は50歳の誕生日を迎えた。いまやベテラン俳優として映画やドラマで主役も脇役もこなし、存在感を示している。今月2日には、27年間所属した芸能事務所のアミューズから独立すると発表したばかりだ。

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6月22日に誕生日を迎えた板谷由夏 ©時事通信社

 もちろん、そこにいたるまでには紆余曲折があった。いざ東京に出たものの、モデルの仕事だけでは食べていけず、有機野菜の販売店などでバイトもしていた。

 そもそもモデルになるきっかけは高校時代、長身で曲線美を持つスーパーモデルのブームのさなか、ケイト・モスが小柄ながら“反スーパーモデル”として活躍するのに憧れたからだった。しかし、いざモデルになり、仕事を続けるうち、何となく自分には向いていないとわかってきた。制作側に行こうかなどと悶々としながら、番組の司会や、ラジオ、バラエティへの出演などモデル以外にもいろんな仕事をしては模索を続ける。

幼少期に母親と(板谷由夏のインスタグラムより)

演技経験ゼロでヒロインに抜擢

 俳優となる転機は、NHK教育(Eテレ)の『イタリア語会話』に出ていた板谷を見て、映画監督の大谷健太郎が撮ろうとしていた『avec mon mari』(1999年)のヒロインをやってほしいと声をかけてくれたことだ。のちに『NANA』などのヒット作を手がける大谷監督だが、これが自身初の劇場用作品だった。

 同作での板谷の役どころは、勝ち気だが自分の本心を伝えるのが苦手な美都子という雑誌編集者であった。美都子は夫の浮気を疑い、離婚を告げて家から追い出したものの、彼の浮気相手と思しき若いモデルや、仕事を通じて親しくなったアートディレクター(大杉漣が演じた)も絡んで話がこじれていく。その様子がリアルな会話によって生き生きと描かれた。