110人の子供たちを一時保護

 教団は独自の「出家制度」を持っていた。多くの在家信者が全財産を教団に寄進した上で出家した。

 サリン事件が起きた95年3月時点で1万1400人の信者がいて、そのうち1400人が出家していたとされる。親が子どもを連れて出家するケースも少なくなかった。

 警察当局は地下鉄サリン事件後の95年4月、山梨県旧上九一色村(現・富士河口湖町)の教団施設など全国約120カ所を一斉捜索した。同月以降、施設にいた約110人の子どもが山梨県をはじめ、各地の児童相談所に一時保護された。

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写真はイメージ ©AFLO

 それは日本の児童福祉行政史上、かつてない経験だった。児童相談所は一時保護した子どもたちにどのように向き合い、社会復帰を支援したのだろうか。そして、国や自治体は宗教が子どもの心身に及ぼす影響をどう捉え、教訓をどう引き継いだのだろうか。

 取材班は当時の状況を証言してくれる人はいないか探したが、何しろ30年近く前の出来事である。保護に関わった自治体に尋ねても「もう当時の人は残っていません」との答えが返ってくるばかりで、簡単には見つからなかった。

「任意か強制か」「根拠法令を示せ」と子供たちが…

 そんな中、インターネットの断片的な情報を手がかりに取材班の宮川が当時の関係者に接触できた。全国で最多の53人を一時保護した山梨県中央児童相談所に勤務していた保坂三雄である。保坂は当時、判定課長として、オウム真理教の子どもたちの心理検査などに携わった。山梨県まで取材に訪れた宮川に、保坂は当時の様子を語ってくれた。

「子どもたちは無表情でおびえていました。自分たちは「逮捕された」と思っているようでした」。保坂は、子どもたちが児童相談所に一時保護されて来た時のことをそう振り返る。

 健康診断をすると、子どもたちは発育が遅れ、7歳なのに3歳並みの体の子もいた。肺炎になっていた子もいた。子どもたちに話を聞くと教団施設では義務教育を受けられず、学習は1日1、2時間程度だったという。

「尊師」と呼ばれた松本元死刑囚を理想化し、職員には敵対心をむき出しにした。子どもたちの心理状態を調べようと面接に誘うと、「任意か強制か」「根拠法令を示せ」などと大人顔負けの答えが返ってきた。神聖とされる頭部に触られるのを特に嫌がり、子どもが遊ぶプレールームの黒板に「オウムにかえせ」と書かれていたこともあった。