「はやくオウムにかえせ」

 だが、こんな経験もした。子どもたちが一時保護所を出て1年後、保坂は個人的なつながりを通じて数人の子どもに絵を描いてもらった。家族を描いてと頼んだのに、ある子は宇宙船の絵を描いたという。

オウム真理教の子どもたちが描いた絵

 家族関係を再構築することの難しさがうかがわれた事例だった。

公文書に手がかり求めて

 保坂と一緒に絵を見つめながら、宮川は子どもたちが心に残した傷の深さを思わずにいられなかった。

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 ただ、保坂以外で一時保護に携わった職員への取材は難航した。実態をもっと知り得る手段はないだろうか。デスクの藤田は「当時の行政文書が残っていれば、何かわかることがあるかも知れない」と考え、取材班にリサーチするよう指示した。

 野口が山梨県中央児童相談所に当時の文書が残されていないか尋ねたところ、「残っているものがあるとすれば個人のケース記録。あったとしても個人情報に該当するので出せないと思いますよ」と色よい答えは返ってこなかった。「個人に帰属しない記録は残ってはいないでしょうか?」と食い下がると、「調べてみないとわからないので、また数日後に電話をください」とのことだった。

 何度かのやりとりの後、正式に山梨県に対して情報公開請求をすることになった。請求を踏まえ、中央児童相談所が倉庫も含めて当時の資料をくまなく探したところ、相当量の資料が残されていることが判明した。23年2月上旬まで断続的に開示を受けた資料の総数は34種類、計2874ページに及んだ。

 野口が膨大な資料を一枚ずつめくっていると、ひときわ目を引くものがあった。子どもたちが一時保護中に使っていた学習帳や日記のコピーだ。

「しゃんりんしゃであそんだ(三輪車で遊んだ)」などと、小学校低学年ぐらいのあどけない字がつづられた学習帳に突然、こんな記述が出てくる。「おうむにかいせ(オウムに返せ)」「けいさつのばかもの」──。

 別の子どもが書いた日記帳では、児童相談所の職員が楽しかったことを書くように水を向けても、「かくことない」と心を閉ざしたかのような記述が続き、「はやくオウムにかえせ」とノートいっぱいに書き殴っていた。子どもたちが現実に適応できない苦しみ、心の叫びが伝わってくるような気がして、野口は胸が詰まった。

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