この会議室にマスクが突然姿を現すのは珍しくない。真夜中などのおかしな時間でさえも、である。いまは荷物用エレベーターで運びあげたベッドで彼もその部下も寝ているが、マスクは、その何週間も前から、8階図書室の長椅子を寝床にツイッター本社に寝泊まりしているのだ(ビリオネアだというのに)。エスターとサシでやりあうことも珍しくない。

 エスターは経営幹部ではないし、それどころか買収前のツイッターでは、すりガラスの向こうでガーゴイルと一緒に控えていろと言われてもおかしくないくらいの下っ端だったというのに。

「洗いざらいわかりあおう」と洗面台を手にマスクがツイッター本社の玄関をくぐった事件から4週間、エスターの人生は一変した。いまや幹部中の幹部である。マスクの「側近」は社外から連れてこられた壮年男性の友だちが基本で、その一員とまではさすがに言えないが、「チーフ・ツイット」を自称する気分屋のツイッタートップと直接やりあえる数少ない人間のひとりになったことはまちがいない。そして、なにかというと断崖絶壁の向こうへ飛びおりそうになるマスクを押しとどめるという、名誉ながら胃が痛くなりそうな仕事をしなければならなくなってしまった。

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 今晩も、か……。

 マスクは、勢いよくドアを開け、ドスドスドスと大きく3歩でエスターの隣まで来た。

 ところが、そこにあった椅子は、なぜか、窓際にしつらえられたひとり用スペースから持ってきたものでとても小さく、188センチの巨体を収めるのは大変だ。手も足も体の前に縮めておくしかない。まるで祈りをささげるカマキリのようだ。しかし、そんなことなど気にする様子もなく、マスクは、2日前の続きを話し始めた。物言いは落ちついているし声を荒げることもない。それでもエスターは、断崖に向けた突進がもう始まっているのだと感じた。急がないと、断崖から本当に飛んでしまうかもしれない。

※画像はイメージ ©AFLO

アップルとの抗争

 ことの始まりは単なる誤解だ。でもだからといって、たやすく解消できるわけではない。ここ何週間か一緒に仕事をしてわかったのだが、そもそもマスクの行動原理は事実でも専門知識でもなく、本能と直感だ。また、彼が対峙しているシステムはどう見ても不当だし、法的に争えば勝てるかもしれないとマスクは考えていたし、実はエスターも同じように考え、同じように憤りを感じてもいた。でもだからといって、たやすく解消できるわけではない。

 マスクはアップルに宣戦布告しようとしているが、ツイッターのトップに就任してわずかに1カ月で世界最大のテック企業にけんかを売るなど、自殺行為以外のなにものでもない――エスターにとっては自明の理である。

 念のために指摘しておくと、アプリを通じた購入の30%も持っていくというアップルの料金体系にかみついたCEOはマスクの前にもいたし、特殊なシステムを用意し、それを使ってもらえば、暴利としか思えないこの手数料を回避できるのではないかと考えた事業者もマスクの前にいた。

 だが、一握りになってしまったマーケティングと営業の幹部とこの同じ部屋で二日前に打ち合わせをして、その決済の拘束力がいかにすさまじいかを突きつけられると、マスクの顔は怒りで白くなり、目はらんらんと燃えあがった。マスクの目に、アップルに支払う料金は、儲け主義一辺倒の暴虐的な事業戦略ではなく、革新や自由、競争といった自分の信条と真っ向から対立するものに映ったのだ。

 エスターは、とりあえず、マスクの懸念をただじっと聞くことにした。少し待てば激高も収まって論理的に考え、致し方ないことだ、今後もがまんするしかないと判断してくれるかもしれない。だがそうはならなかった。この件に関する打ち合わせの3回目では、現状を受けいれる気などさらさらない、アップルと戦う、法廷に持ち込んでやる、必要なら最高裁まで争うとまで言いだしてしまう。