マスクを説得できるのか…緊張の瞬間

 さて、エスターの隣に座り、小さな椅子を軽くゆらしながら、マスクは、アップルの独裁について、アプリ内課金に手数料を課すのは強盗の一種だ、テック業界を独占している証拠だ、法的に闘い、分割解体する必要があるなどと、ぶつぶつぶつぶつ独り言をつぶやいている。さらに、ツイートストームを巻きおこしかねないことまで言いだし、まずい展開になるかもと聞き耳を立てていたエスターをあわてさせた。アップルに抗議するようフォロワーに呼びかけるというのだ。しかも、オンラインだけでなく、現実世界でもアップル本社にデモのようなものをしかけろ、と。エスターは自分の耳が信じられなかった。一揆でも引きおこすつもりか?

 急いで対処しなければならない。このままではツイッターの未来にも暗雲が立ちこめてしまうし、テック業界全体をゆるがす大騒ぎにもなりかねない。ツイッターとアップルの戦争など、天才がするようなことではなくて狂気の沙汰に近く、両社の評判にも傷がついてしまう。

 エスターは机に手をついて立ち上がった。身長150センチと小柄な彼女は、これでようやく、獰猛なアントレプレナーと正面から目を合わせることができる。そして、マスクが理解してくれるやり方で状況を説明。マスクは旧経営陣をツイッター1・0と呼んでいるのだが、彼らが残した遺産のせいで、アップルに勝つことは不可能なのだ、と。マスク自身はなにも悪くないのに、急所をアップルにしっかり握られてしまっているのだ、と。

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※画像はイメージ ©AFLO

 特に大きな問題は、アダルトコンテンツをまともに取り締まってこなかったことだ。旧経営陣は認めたがらないが、実は、ポルノ目的の利用がとても多いのだ。「問わず語らず」の裏世界である。加えて、最近は、もっとまずいものが広がっていた。児童ポルノである。ツイッター側もセキュリティチームやモデレーションチームが全力で抑えにかかっているにもかかわらず、だ。

 ツイッターがアダルトコンテンツに侵食されていることや児童ポルノで苦戦していることをアップルは当然に知っているし、ツイッターアプリの大半がアップル経由で配布されているのだから、その支払い記録も押さえている。つまりアップルと下手に戦うと、この記録を使われるかもしれない。マスクがツイートしたようにツイッターをアプリストアから排除する場合も、その理由として、禁止された決済方法を使ったからではなく、アダルトコンテンツや児童ポルノという表沙汰になるとまずいものを挙げてくる可能性があるわけだ。そんなことをされたら、世界のさらし者になってしまう。

 話が終わっても、マスクは押し黙ったまま、隣に立つ彼女をじっと見ていた。机に座ってから初めてのことだ。口を開いたのは、しばらくたってからだ。

「それはオレがトップに就任する前の話だ。オレのせいじゃないぞ」

「ええ。でも、いまのトップはあなたです」

 エスターは生きた心地がしなかった。もう一呼吸おいて、マスクはうなずいてくれた。

 助かった。児童ポルノの温床だとアップルに批判されたら、世間的にどう見られることになるのかを考えたはずだ。そうなれば、ツイッターCEOである自分の評判に新たな傷がつくことになる、と。そうでなくとも、最近は、メディアにたたかれまくっているわけで。

 肩の力が抜けるのを感じ、エスターは椅子に背を預けた。マスクは、弁護士やそれこそ干し草用の熊手を持った農民を送るより、自分がクパチーノに行ったほうがいいのではないかと一歩引いた対応をぶつぶつと検討している。話し合いで妥協点を探す平和的な解決方法だ。

 このつぶやきを聞きながら、エスターは、自分の体がまだ震えていることに気づいた。

 一歩まちがえればまるで違う展開になっていたはずだ。本当に危ないところだった。戦うしかないと思い込んでしまう一歩手前までマスクは行っていた。いったんそう思い込んでしまえば、いったん、勝つか負けるかだと思ってしまえば――。

 マスクは負けない。

次の記事に続く ひとり、またひとりと同僚が消えていき…「会社が成功するためです」マスクによるツイッター買収後に届いた“深夜の解雇通知メール”