「担任の先生の話では、飛行機が墜落した側の窓から炎が入り込んで、教室はいっぺんに火の海になった、と。2年生の子たちは生きながら燃やされているわけです。この校舎は全焼し、焼け跡から見つかった2人の女児の遺体は、性別さえわからないほどだったのです」

詩人の中屋幸吉氏は琉球大学1年の時に、小学2年生だった姪の死に立ち会い、大きなショックを受ける。「祖国復帰運動」に邁進するが、基地撤去など望めないと失望する。大学卒業から2カ月後の66年6月に自死している。あまりにも重たい告発である。

〈われわれには、パラシュートはない!〉

琉球新報が2017年に発行した『沖縄戦後新聞』は、記者が戦後史の現場を訪ねて、当時の報道に新たな証言と事実を加えて再構成するという企画だ。その第1号で宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を詳報している。その中で、琉球大の学生が警察と押し問答の末、マスコミを装って現場に潜入した記事が掲載されている。後に山之口貘賞詩人となる中里友豪氏(故人)で、そのルポ「恐怖と血の代償―石川ジェット機墜落事故の現場」を『琉大文学』(第二巻第七号、1959年7月6日、初七日)に寄せた。6年生の教室に向かった時の惨状をこう綴る。

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〈二階に上がる。廊下に穴が開いている。机や腰掛けが散乱して、爆発の物凄さを物語っている。血のついた教科書やノートなどが、散らばっていて、その上に血の足跡が鮮やかだ。飲みかけの真っ白いミルク、なま臭い血が、周囲に飛び散って、異様な空気を孕(はら)み、呼吸が苦しくなる。人間の血とは思えない、しかし明らかに小学生である、小さな生命の血が、コンクリートの床一面にこびりついている〉

次のような会話のくだりもある。

〈――操縦士は、パラシュートで助かったらしいですね。

めがねの男 そうらしいですね。操縦士も人間です。助かりたい気持ちはわかります。彼にはパラシュートがあった。だが、子供たちには何があったでしょう? 何もなかった。子供たちにはパラシュートはなかった〉