事故から65年目の昨年、宮森小学校で遺族や事故体験者、在校生ら300人が参列して慰霊祭が行われた。学校敷地内にある「仲よし地蔵の碑」で献花や焼香を行った後、式典の冒頭で海勢頭さんが作詞・作曲した「630の誓い」を歌った。

フクギの花散り香る季節は過ぎて
「慰霊の日」に祈り 630に誓うよ
奪われた平和の島を取り戻すと誓う
宮森の子は永久(とこしえ)に 平和の使徒になる

戦後復興いち早く石川の街は
笑いあふれていたけれど 630に泣いたよ
返らない命の証 忘れないと誓う
宮森の子は永久に 平和の使徒になる
(全歌詞は写真を参照)

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提供=海勢頭さん 音楽家・歌手の海勢頭豊さんが作詞・作曲した「630の誓い」の歌詞 - 提供=海勢頭さん

米軍に占領され、復興の出発地となった街

海勢頭さんはこう話す。

「慰霊のための歌にはしない。みんなで平和を誓う歌にしたい。誓いを立てないと亡くなった人に対する慰霊にはならない。二度と戦(いくさ)のない世にするために、誓いを立てることが祈りなんだよ。子どもたちが毎年つらい慰霊祭をやっているけれども、それを嫌がらず、使命だと思えるような、そういう歌にしたつもりです」

父親を戦争で亡くした海勢頭さんは、幼いころから石川に住む叔父の家によく遊びに行ったという。高校も石川市に隣接する具志川市(現・うるま市)の前原高校に入学した。そのため、石川が発展していく様子をよく知っていた。事故が起きたのは高校1年生の時だ。数日後に現場を見て、強いショックを受けた。

2番の歌詞の冒頭にあるように、石川は戦後の沖縄復興の出発地となった。

石川は、戦前は美里村(現・沖縄市)の一部で、人口1800人ほどの集落だった。45年4月1日、沖縄本島中部に上陸した米軍は、3日には石川を占領して、上陸地の読谷(よみたん)や北谷(ちゃたん)の避難民を収容し始める。

収容所から解放され、再建が始まった矢先に

米軍は巨大な「石川民間人収容所」を設置し、日々、増加する避難民を収容していく。最大時で石川の人口は3万人を超えるほどだった。沖縄戦で家や家族を失い、失意の底にあった人々の前に現れたのが「沖縄のチャップリン」と呼ばれた小那覇舞天(おなはぶーてん)だった。カンカラ三線(さんしん)をかき鳴らし、歌や踊り、笑いを披露して人々を元気づけた。中には怒り出す人もいたというが、「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と言いながら慰問を続けたといわれている。