5月7日には、収容所内に石川学園(現在の城前小学校)が設立される。後に、その分校としてスタートするのが宮森小学校だ。

8月15日、戦後沖縄の行政が石川で胎動する。米軍は沖縄統治の模索を始め、石川収容所において住民代表者会議が開かれた。20日には、収容所の人々の要望や苦情などを聞くための諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)会(琉球政府の前身)」が発足する。日本で天皇の玉音放送があった日に、戦後沖縄の行政は石川を中心に第一歩を踏み出す。米軍が占領した各地域が解放されると、収容された人々は元の居住地に戻っていったが、収容所にいる間に土地を米軍基地に接収された人も多く、そのまま石川に残って生活を再建し始めた。

そこへ、米軍ジェット機墜落事件は起きたのである。

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事故の衝撃で記憶が消えてしまった

今回、事件を記録し、啓蒙活動などを行うNPO法人「石川・宮森630会」の会長を務める久高政治(くだかせいじ)さんにインタビューした。久高さんは海勢頭さんの友人で、曲作りを依頼した一人だ。事件当時は、宮森小学校の5年生だった。

「事故の時、私は運動場で遊んでいました。ものすごい爆音に驚いて、走って家に逃げ帰りました。どこもケガはしなかったのですが、全身が真っ黒に汚れていたそうです。ですから、悲惨な現場を見ていませんが、事故の衝撃が大きかったのか、1年生から5年生までクラスが何組だったのか、担任の先生が誰だったのか、名前もまったく覚えていないんです」

久高さんは浦添市役所に勤めていたため、仕事や社会活動、交友関係も浦添が中心だった。定年退職後は、地元の石川で落ち着いて暮らそうと考えた。小学校の同級生たちが行っている模合(もあい=頼母子講(たのもしこう)の一つ。地域や職場の仲間がお金を出し合って、飲み会や旅行など親睦に役立てる)にも参加した。

「その時に『5年1組だったよ』とか担任の先生の名前を教えてもらっても、全然覚えていない。いろいろと教えてもらいながら、ゆっくりと断片的に思い出すんですが、私と同じような人が何人もいるらしいんです」