理不尽この上ない。この言葉で文末を締めくくる著者の強い怒りが伝わってくる。

〈われわれには、パラシュートはない!〉

事故を生き延び、県トップのランナーになったのに

事故から15年後、やけどの後遺症のため亡くなった新垣晃さん(享年23)は2年3組だった。髪についた火を担任の先生が手で払い消しながら、安全な場所まで連れ出した。全身の45%にやけどを負い、昏睡状態が続いたが一命を取りとめた。

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久高さんが説明する。

「やけどが落ち着くまでは皮膚が赤く、ケロイドにもなっていたので、中学でいじめを受けた時期もあったようです。ですが、新垣さんは体格がよくて、走るのが早かった。石川高校では駅伝部に入部します。ここで頭角を現して、3年生の時に800メートル走では沖縄で1、2位を争うほどのランナーになった。体育の教員になることを志望し、琉球大学教育学部保健体育学科に進んで、1年の時に県体育大会の800メートル走で優勝します」

その後も飛躍が期待されたが、2年になると伸び悩んだ。やけど痕の皮膚がつるつるしていて汗がかけないため、運動すればするほど腎臓に負担をかけていった。体育の教員になることは断念し、社会教育学科に移って、治療にも専念したという。

墜落した機体はとんでもない欠陥機だった

久高さんが続ける。

「新垣さんは自分の得意な分野を見つけて、自信を取り戻した。沖縄のトップランナーとして誇りを持ち、みんなに感動を与えるくらい成長していきました。しかし、事故で負った後遺症が元で、多臓器不全のため23歳で亡くなったのです」

多くの人の人生を狂わせたジェット機墜落事件は、なぜ起きたのか。

米軍は事故発生直後、F100戦闘機の墜落は「エンジントラブルによる不可抗力の事故」と説明していた。しかし、米軍資料によって、整備上の人為ミスが重なっていたことも判明した。

しかも、F100戦闘機は機体が大破したり、死者が出たりするなどの「クラスA」の重大事故が、宮森小学校での事故の前年に168件(機体大破116件、パイロット死者数47人)も発生していたのである。同機が飛行していた54年~90年では1161件(機体大破889件、パイロット死者数324人)に上っている(「琉球新報」16年6月30日付)。