太平洋戦争終結から14年がたった1959年6月30日、復興が進む沖縄・石川市(現うるま市)で、米軍のジェット戦闘機が小学校に墜落した。教室を一瞬で火の海にし、児童を含む17人の命を奪った事故は、なぜ起きたのか。生存者に取材したジャーナリストの亀井洋志がリポートする――。(後編/全2回)

本土の人は知らないもう一つの「慰霊の日」

沖縄を代表する音楽家・歌手の海勢頭豊(うみせどゆたか)さんは、沖縄戦や戦後の反基地闘争などをテーマにした楽曲を手がけてきた。昨年は、米軍機の墜落によって児童含む17人が犠牲になった痛ましい事件から65年の節目に、鎮魂歌を届けた。改めて事故の実態と今日なお続く課題を検証したい。

沖縄の6月には、もう一つの「慰霊の日」がある。1959年6月30日に起きた「宮森小学校米軍ジェット機墜落事件」である。

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午前10時40分ごろ、石川市(現・うるま市)の上空を飛行していた米軍嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が突然、エンジン火災を起こし、危険を知らせる警告ランプが点灯した。搭載していた25ポンド爆弾4発を南西の海に投棄し、基地へ引き返そうとした。だが、制御不能になり、パイロットはパラシュートで脱出。機体は、家屋などをなぎ倒しながら宮森小学校近くの住宅地に墜落、大破し、炎上した。

事故当時、小学校はミルク給食の時間で多くの児童は校舎内にいた。機首部分が6年生などのクラスが入るコンクリート校舎に激突している。機体から漏れ出した燃料に火がついて住宅地と2年生のトタン屋根校舎などを焼いた。この事故によって、児童11人と住民6人が死亡、210人が重軽傷を負う大惨事となった(その後、当時の児童1人が後遺症のため23歳で死亡)。

「宮森の子は永久に 平和の使徒になる」

当時の地元紙の記事を見ると、焼け落ちた校舎や、安置所となった教室で子どもの遺体に取りすがって泣く遺族の写真が掲載されている。戦後からまだ14年。米軍機は、沖縄戦を何とか生き継いできた人々の命を奪ったのである。