夫の女性遍歴がストレスに

 高容姫の病気は、彼女が在日コリアンの帰国者という不安定な立場のまま、最高権力者の妻となったことで受けたストレスも関係していただろう。

 金正日(1942年生)の女性関係は複雑だ。容姫を含め5人の女性がいたとされる。

 最初の妻は、大学の同級生である洪一茜(ホンイルチョン、1942年生)だった。2人目は成蕙琳(1937年生)だ。蕙琳は映画女優として活躍していた女性で、すでに夫がいた。夫と離婚したあと、1960年代後半に金正日と結婚し、1971年に長男・金正男を出産した。しかし、金正日は蕙琳との結婚生活を隠し、彼女が北朝鮮で公の場に姿を現すことは最後までなかった。最後は病気治療のため滞在していたモスクワで他界している。

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 父の金日成は、女優出身の成蕙琳との結婚を認めず、金英淑(1947年頃の生まれ)を正日の正式な妻に選んだ。英淑は2人の娘を産んだが、結婚生活は形式的なものだった。

 代わりに妻の座に座ったのは高容姫だった。しかし金正日は、在日コリアン出身の女性と一緒にいることを父になかなか言い出せなかった。容姫は、秘密別荘でひっそりと暮らしながら正哲、正恩、与正の3人を産み、育てた。金日成は最後まで彼女を息子の妻と認めず、その子どもたちとも面会しなかったと伝えられる。

 金正日は容姫と同居していたが、さらにそこに新しい女性が登場してくる。党中央委員会の書記室の金玉(キムオク)だった。1964年生まれで、容姫よりも10歳以上若かった。容姫が乳がんの切除手術を拒んだのも、新しい女性が原因だったとの見方もある。

 脱北者の証言によれば、容姫は手際がよく、事務処理能力の高い金玉を信頼していたというが、病気治療のためにフランスやスイスなどで海外生活をしている間、夫と金玉の関係が心に引っかかっていただろう。

 容姫の死去後、平壌を代表する女性専用病院である平壌産院内に、乳腺腫瘍(乳がん)研究所が設置された。北朝鮮からの報道によれば、乳がんの診断、治療に必要な機材が揃っているという。妻の病死を悲しんだ金正日が建設を指示し、自ら設計図を点検したという。正恩は2012年11月に、この研究所を視察している。

次の記事に続く 隠されていた「日本生まれの金正恩の母」の動画が突然流出…死後に「彼女を称える記録映画」が作られた“本当の理由”とは?

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