北朝鮮の最高指導者・金正恩総書記の母である高容姫。彼女は大阪で生まれ、小学校4年生まで日本で過ごした在日コリアンだった。北朝鮮に「帰国」したあと、持ち前の美貌でトップレディの座を射止め、故金正日総書記との間で2男1女を産み、育てた。

 誰もが知っている人物でありながら、北朝鮮では最も隠された存在でもある。金正恩自身すら、自分の母親について公の場で話したことはないという。

 ここでは、ジャーナリストの五味洋治氏が徹底的に取材を重ねて高容姫の実像に迫った『高容姫 「金正恩の母」になった在日コリアン』から一部を抜粋。彼女の死後、突然流出した動画に映っていた生前の姿とは――。(全5回の5回目/最初から読む)

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高容姫が偽造旅券で使っていた顔写真(関係者提供)

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90分の生前動画

「おもしろい映像がありますよ」

 毎日新聞北京支局の記者だった米村耕一が、知人からそんな話を聞いて、北朝鮮からの映像を入手したのは2012年のことだった。彼は主に北朝鮮問題を担当しており、中朝国境地帯から流出してくる秘密文書を入手し、数々の独自ネタを放っていた。

 その映像が、USBメモリーに入っていたのか丸いDVDに入っていたのか、米村の記憶はさだかではない。ただ、あまり見たことのないファイル形式だったので、再生するのに苦労したことはよく覚えている。再生に成功すると、次のようなナレーションが大げさな抑揚のついた女性の声で続いていた。

 彼女の名は、歴史に深く刻まれることはありませんでした。しかし、その存在は、ある偉大な指導者の陰にしっかりと刻まれていたのです。彼女は、単なる指導者の妻ではなく、国家の陰の力として、そして国民の心の支えとして、その生涯を捧げました。

 その映像は「先軍朝鮮のオモニ(お母さん)」をたたえる内容で、90分にも及んだ。金正日と、ふくよかな女性が登場し、各地の軍部隊を視察していた。とくに女性は、軍人たちの生活を観察しており、母親のような振る舞いだった。ところが映像を何回見ても、この女性が誰なのか全く説明がない。しかし、すでに写真が公開されていた高容姫によく似ていた。

 大急ぎで裏付け作業が始まった。日本にいる毎日新聞の2人の同僚記者が、金正日の料理人、藤本健二と会い、映像を見せた。藤本は「こんな映像があったんだ」と驚きを隠さず、そして声を詰まらせ、涙を流した。