サイン会が「いつも心苦しい」理由とは

 ちょうど、次のサイン会が一ヶ月ほど後に迫っていたころだった。私は、独自にできる準備を見つけ出すため、まずはサイン会をしているときの読者の様子について思い出してみることにした。

 やはりサイン以外で喜んでもらえるのは、名前と顔を覚えていること、だろうか。前回も来てくださいましたよね、という声かけには、喜んでいただける確率が高い(ただし、それが正解だった場合に限る。「いえ、初めましてです」と返していただいたときの気まずさは筆舌に尽くしがたいので、初めていらっしゃる方は是非「初めまして」と言っていただけると何かミスがあっても筆舌に尽くせる範囲で収まると思いますすみません)。

 中にはプレゼントや手紙を持ってきてくださる方もおり、そのたび本当に「すまないねえ……」という気持ちになる。そして自宅で内容を確認しては、「本当に、すまないねえ……」という気持ちになる。いつもありがとうございます。

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 手紙というのは、やはり嬉しいものだ。ちなみに、小説家に届く手紙というと本の感想が書かれていると想像するかもしれないが、実態はかなり異なる。本の感想というよりも、本の内容に触発された人が、自分の人生についてあけっぴろげに語ってくれているものがほとんどだ。極端な話、感想にあたる部分は一行や二行、ということも多い。「『○○』を読みました。私もかつて似たような経験があり~」となるわけである。そこからその人の過去が紐解かれ、現在が語られ、未来への展望、または絶望が綴られる。私はそういう手紙を読むことが好きだ。本が思わぬ形の鍵となって、その人の内部がどんどん開かれていく感じにゾクゾクする。

朝井リョウ『そして誰もゆとらなくなった』©文藝春秋

 そのような手紙には、本当にいろんなことが書かれている。今日このサイン会のあとに好きな人に告白しにいきます、とか、大切な試験が迫っているなか久々の外出がこのサイン会です、とか、家族や仕事や友人関係の悩みや、ここで例として差し出せないような内容まで千差万別だ。私は読み終えるといつも、この人と手紙のその後について話したいな、という気持ちになる。手紙は時間を閉じ込める。いつ読み返しても、その人がその紙の上にペンを走らせていた当時の時間が私のもとに流れ込んでくる気がする。だけどその人は手紙を書き終えたあとの時間を生きているわけで、ここに書いてくれた告白の行方はどうなったのかなとか、大切な試験の結果は大丈夫だったのかなとか、あの悩みは解決されたのかなとか、生き続けているかなとか、そういうことが気になってしまう。そしてそれが確認できる場は、次のサイン会くらいしかない。

 だから私はサイン会中、いつもどこか心苦しい。もし、前回手紙をくれた方が今回のサイン会にも来てくれていたとして、そのことに私が全く気づかずにスルーしていたら。手紙の中でものすごく色んな話をしてくれた人に対して、初めまして、という態度を取っていたとしたら――そんな、答え合わせのしようのない後ろ暗い可能性が、常に耳元のあたりに漂っているのだ。

 このあたりまで考えて私は、はた、と思い立った。

 私がすべきサイン会への準備は、これかもしれない。というよりも、これに関して熱烈に準備をしておけば、サイン会を開催するたびにうっすら湧き上がる後ろめたい気持ちから少しは解放されるのかもしれない。

 というわけで私は、作業に取り掛かることにした。

 これまでいただいた手紙をデータベース化するという作業に。