まずエクセルを立ち上げ、簡単な表を作成する。表のX軸は左から、名前、都道府県、手紙の内容の要約。ここに、保管してある手紙について一つずつ入力していくのだ。2014年あたりからは、開催したサイン会ごとにいただいた手紙をまとめて保管してあったので、非常に作業がしやすかった。これで、サイン会のときにまず差し出される為書き用のメモ(サインと共に書いてほしい名前のメモ)さえあれば、その名前からいただいた手紙の内容を検索できるというわけだ。こういう手紙をくれましたよね、この件はあれからどうなったんですか――そんな、夢の会話が現実になるのである。

 一ヶ月後に迫ったサイン会は大阪での開催だったので、再会できる可能性の高い関西圏の方からの手紙はとりわけ強く記憶に刷り込むようにして再読した。読み返してみると、改めて、直筆の文字から書き手の思いがびしびしと伝わってきた。カラカラの喉で思い切り水を飲み干しているような、そんな感じだった。そこに書かれている夢や悩みや希望や絶望のひとつひとつが、私の喉元をこじ開けるようにして流れ込んでくる。

 最終的に私は、500通近い手紙のデータベース化に成功した。小さな文字でびっしりと埋め尽くされた表は圧巻で、私はパソコン画面をわざと少し遠くからうっとりと眺めたりした。

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朝井リョウさんのエッセイシリーズ“ゆとり三部作”。©文藝春秋

出版社の社員を驚愕させた打ち合わせ

 後日、出版社の方々とサイン会に関する打ち合わせが行われた。写真撮影を可にするかどうか、書き添える言葉のリクエストを受けるかどうか、オリジナルのハンコなどを押す作業があるのか、他に何か必要なものはないか――その店舗でサイン会の経験があってもなくても、このような打ち合わせは結構重要だ。100人以上の人間が参加するイベントをスムーズにやりおおせるためには、想像以上に細かいルールが必要になってくる。

「――というわけで、営業部からも数人、お手伝いに行く予定です」

 ありがとうございます、と、私は頭を下げる。サイン会というのは存外、人員が必要なのだ。私のそばにいる人だけでも、為書きを参加者から受け取り私に渡してくれる人、本の表紙を開いた状態で押さえておいてくれる人、サイン後に間紙を挟む人、ハンコを押す作家ならば捺印をする人等、それなりに場がゴチャゴチャする。

「えー、朝井さんから他に何か気になる点があればおっしゃってください」

 だが今回は、そんなゴチャゴチャする場所にもうひとり、人員が必要だった。

「あのー」

 私は口を開く。

「私の隣にもうひとりいてくださると、とても助かるんです」

「もうひとりですか?」と、社員さん。

「はい。ちなみに、その人は立っているんじゃなくて、私の隣に座っていてほしいんです」

 はあ、と、社員さんがギリギリ頷く。

「誰でも大丈夫ですか? 何かお手伝いすることがあるんでしょうか」

「あ、えーっと」私は少し思案し、続ける。「じゃあ、できるだけタイピングの速い人でお願いします」

 出版社の方々の間に、ん? という空気が流れる。当然である。雇用条件が謎すぎる。私は一息で説明をした。

「その日読者からの手紙をまとめたデータを持ち込むので、為書きが渡されたらすぐにその名前で検索をかけてほしいんです。で、該当する手紙のデータがあったら、私にその画面を見せてほしいんです。その手紙の続きについてお話をしたいので」

 私にとってはこれ以上ない説明だったが、その場にはなんともいえない空気が流れていた。ただ私は非常に落ち着いていた。サイン会当日が待ち遠しくて仕方がなかった。

後編に続く

時をかけるゆとり (文春文庫 あ 68-1)

朝井 リョウ

文藝春秋

2014年12月4日 発売

風と共にゆとりぬ (文春文庫 あ 68-4)

朝井 リョウ

文藝春秋

2020年5月8日 発売

『そして誰もゆとらなくなった』文庫発売を記念して、朝井リョウさんによる「没ネタ成仏トークライブ2 ~Precious Memories~」を、2025年8月24日(日)14時~に開催いたします。

 

トークライブの会場参加の応募フォームはこちら

 

150枚限定の【抽選制】で、応募〆切は7月15日(火)正午までです。7月16日(水)18時からは配信チケットも販売いたします。皆様のご応募をお待ちしております!

 

 

次の記事に続く 「え、やめてください!」直木賞作家・朝井リョウが読者から“拒絶”された瞬間