アイドルからシンガーへ…転身を遂げた一曲

 もちろん、レコード会社には明菜を担当するディレクターやプロデューサー、また宣伝を統括するスタッフがちゃんとおり、レコードやパブリシティのためコンセプトを立て、それにもとづいて彼女の作品ばかりでなくイメージをつくり上げてきた。

 だが、作品ごとに気鋭の作詞家や作曲家を迎え、歌の世界観を自分のものとして表現するうちに、彼女のなかでしだいにアーティスト志向が強まっていく。なかでも井上陽水から提供された1984年リリースの「飾りじゃないのよ涙は」は、彼女がアイドルから本格的なシンガーへと転身を遂げる大きな画期となった。

中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」(1984年)

 デビュー以来彼女を担当してきた前出の島田ディレクターは同作をもってプロデューサーへと身を引いている。それというのも、彼女との関係がぎくしゃくし始めたので、決定的な衝突を回避するためであった。このことからも、彼女がアーティスト志向に傾くなかで、スタッフへの注文もますます厳しさを増していたことがうかがえる。

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史上最年少&2年連続で日本レコード大賞を受賞

 それでも明菜は確実に大きな成果を上げていた。1985年暮れに「ミ・アモーレ」で当時史上最年少の20歳で日本レコード大賞を受賞すると、翌1986年にも「DESIRE -情熱-」で同賞に輝き、女性歌手では初めて2年連続受賞を達成した。彼女が初めてセルフプロデュースによるアルバム『不思議』をリリースしたのは、ちょうどこの間、1986年8月のことだ。

中森明菜『不思議』(1986年)

 このとき、自分の声も楽器の一つというような音楽をつくってみたいとの彼女の意向で、全収録曲に、当時のポップスの最先端だったニューウェーブ・サウンドとボーカルを一体化する処理がなされた。

 こうした先鋭的な試みについて《私は(いつまでも同じ場所には)とどまっていたくないの。いつも、いろんなものにチャレンジしたい。今までのものは私にとってすべてではなくて、ほんの一部分。私が今からやろうとしていることは、ひょっとしたらファンはついて来てくれないかも知れないけど、でも――》と、彼女は一抹の不安を抱きながらも決意を表明している(『週刊明星』1986年7月10日号)。