横田さんが毎晩泣いていたこと

横田 入院中は家族がお見舞いに来て「今週こんなことがあってね」と楽しく話してくれて、娘たちもキャッキャしながら車椅子を押してくれて、賑やかにやっていたんです。

 でも、退院して家に戻ると、家族は他人を見るような目で私を見ていました。何もできなくなった私に、どう接していいかわからず、明らかに戸惑っている様子でした。

 

 どうすることもできなかったし、まずは知り合いや友人にお願いして、衣替えや部屋の大掃除を一緒にやってもらいました。

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——生活する上でどんなことが困りましたか?

横田 料理ですね。病院でご飯を作る練習はしていましたが、家で料理をしてみるとすごく時間がかかりました。長女が中学生になっていて、毎朝お弁当を作る必要があったんです。

 はじめは私が作るのが難しかったので、平日は娘たちが私の実家に泊まって母にお弁当を作ってもらい、週末だけ家に帰ってくることにしました。でも、娘が帰ってきて、「家から通いたい」と泣き出してしまって。

「自分は何をしているんだろう」「苦しんでいるのは自分だけじゃない」と思って、退院して1週間ほどで、毎朝のお弁当作りを始めました。

 あとは、車の免許の適性検査も受けました。買い物も頼めば誰かが買ってきてくれたんですけど、それが何カ月も続くと、お互いにストレスになるとわかっていたので。早く自立しなきゃと思いました。

——退院した当初、娘さんたちは横田さんとの接し方に迷ったそうですね。 

横田 拒否反応がすごかったです。「一緒に歩きたくない」「義足を絶対人に見せないで」「手はアームで隠して」と、毎日2人の娘から言われていました。

 私も娘の言葉に従っていましたが、毎晩泣いていましたね。

 

——それは辛かったですね……。

横田 その状態はしばらく続きました。娘たちの態度が明確に変わったのは、切断から2年経ち、2020年の熊本城マラソンを初めて走ったときです。

 その前から少しずつ状況を受け入れてくれていたんですが、義足をつけて熊本城マラソンを走る私の姿を見て、娘たちとの関係も大きく変わりました。

撮影=細田忠/文藝春秋

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