40歳のときに「電撃性紫斑病」という大病を患い、両脚と両手の指の切断を余儀なくされた横田久世さん(47歳)。2025年3月には義足で東京マラソンを完走するなど、精力的な活動を続けています。

 夫と2人の娘と平穏な日常を過ごしていた横田さんに、いったい何が起きたのでしょうか。当時の状況を伺いました。(全4回中の1回目/続きを読む

横田久世さん ©︎細田忠/文藝春秋

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「顔に斑点が出とるばい」と旦那に言われ…

——病気になる前は、どんな生活を送っていましたか?

横田久世さん(以下、横田) 旦那が車の整備工場を経営していて、私はそこで事務のパートをしていました。子どもは(当時)小学5年生と6年生の娘が2人。子育てが生きがいの、どこにでもいるような主婦だったと思います。

——病気を発症した日は、どんな状況でしたか?

横田 子どもがチアダンスを習っていたので、その日は、自宅から車で1時間くらいの体育館まで送って行ったんです。体育館で娘の練習を見ていたら、だんだん具合が悪くなってきて、悪寒もしてきたんですね。

 練習が終わり、子どもたちは汗びっしょりで車に乗ったのですが、私は「寒い、寒い」と言いながら暖房を全開にして家まで帰りました。

 家に着いて熱を測ると40度。12月だったので、風邪かインフルエンザにかかったのかと思い、その日はすぐに布団に入りました。

 

 翌日、目が覚めてもまだ体調が悪く、たまたま旦那が仕事から帰ってきて「病院に行こうか」と言われました。最初は「いいよ」と断ったのですが、「いや、行った方がいい」と押し切られ、病院に行くと胃腸炎と診断されました。

 点滴を打って家に戻りましたが、全然良くならず、旦那に「顔に斑点が出とるばい」と言われたんです。もう一度先生に電話して状況を伝えると、「それはおかしいから、もう一度診せてください」と言われ、再度病院に向かいました。

 その頃には足が痛くなっていて、立つのも辛かったんですけど、どうにか車に乗って病院に着きました。先生が私の顔を見た瞬間、「すぐに救急病院に行ってください!」と。

 旦那とそのまま救急病院に行きましたが、救急車ではなく自家用車だったので、病院に着いてから受付をしていました。

 その間もどんどん痛みが増してきて、「足が痛い! 痛い!」と大声で叫んでいたら、中から先生が出てきて、ベッドに乗ったところまで覚えています。

 そこから意識がありません。それが電撃性紫斑病との出会いでした。