ヒ素入りビールで「同級生の皆殺し」を画策
最終的に開催時期は多くの者が帰省する正月が良いだろうということになり1991年1月2日、会場は赤沢の希望どおり、飲食物持ち込み自由な上峰町の旅館を貸し切ることで決まった。これで第一段階クリア。赤沢は開催時期が近づいてきた1990年11月に勤務していた東京都府中市の会社を辞め、海外からビール21本を取り寄せる。
慎重にビール瓶の蓋を開け、1本1本に粉状のヒ素を混入後、蓋を元に戻す。ヒ素は無味無臭で、1998年7月に発生、4人が死亡した和歌山カレー事件でも使われた毒物。これを同級生に飲ませ殺害するのが狙いだった。
赤沢は大量殺人を遂行するため、改造銃を作り、さらに化学薬品の知識をもとにタイマーにより発動する時限爆弾も完成させる。たとえビールを飲まない者がいたとしても、会場を爆破し、トドメに銃で撃ち殺そうと考えたのだ。
準備が全て整った決行5日前の1990年12月28日、赤沢は時限爆弾3つとヒ素入りビール21本、改造銃をワゴン車に積み込み、遠路はるばる佐賀の実家に帰省。自室で爆弾のタイマーが正確に作動するかを確認し、銃に弾を込めるなど最後の調整に入った。問題は何もない。興奮を覚えながら大晦日の31日夕方、会場の旅館に大量のビールを運び込む。あとは当日に爆弾を仕掛けるだけだった。
しかし、母親(同53歳)は息子の異変に気づいていた。
帰省して以降、ほとんど言葉を交わさず部屋にこもりきり。良からぬ不安を覚え、息子が出かけている隙に1人で彼の部屋に入る。無造作に置かれたバッグの中を開けると1冊の手帳が目に入った。
ページをめくり母親は驚愕する。復讐の詳細が書かれていたからだ。
