おおかたの周囲の予想通り、2度目のこの法律婚も3年で破綻を迎えた。離婚時点で結婚時共同で購入した家があること、それをすぐには売却できない事由があったこと、それから本音を言えばなるだけ私が穏便に離婚を済ませたい一心で、離婚後すぐさま苗字を戻すという行動がお相手の心象を悪くするんじゃ、という行き過ぎた懸念があり(住む家のことが後に片付くまではこれが続いた)、結局苗字は2度目の結婚相手のもののまま、数ヶ月がたってしまった。
そもそも私には先にもお伝えしたとおり、ペンネームという便利なものがある。なのでいかに本名の苗字が変わろうが、通称はこの20年変わらず偽名の「鳥飼」なのであった。
ちょっと奮発した食事や買い物でうきうきと決済する時の署名が、病気やけがで不安な時に病院で呼ばれる名が、自分が事故にでも遭って死んでしまった時にアナウンスされる名がなんであろうが、構わないじゃないか。構わないのだろうか?え、本当に?
小さな「自分譲り」の積み重ねの結果
苗字なんて記号だから、本当はなんだって構わないと頭では思う。でも2度目の離婚の数ヶ月後(つまりようやく共有不動産問題が片付いたあと)、これらのシチュエーションで今の苗字を呼ばれるシーンを想像すると、心臓の裏側にいっせいに湿疹が出来たかのような壮絶な違和感を覚えるようになった。
1度目の離婚後にそういうことはなかったので、事情によるというか、なんでそこまでの異物感を感じるのかを最も平たく説明するなら、どの人間にも相性というのがあり、2度目の結婚は自分が自分らしいままでは居られない種類の相性だった。と解説しとくのが妥当なところかと思う。
ただそれは、例えば苗字を当たり前のように夫側に変えるような、小さな「自分譲り」の積み重ねの結果だと、私は思っている。
何かで名前を呼ばれるたび、またどこかのレストランを予約するたび、可愛い飼い犬のワクチンのお知らせを受け取るたび、自分が自分のままではいられなかった時のことを思い出してちょっと息苦しい。
ちなみにレストランの予約なんて仮名でもなんでもいいのに、なぜそんな律儀に本当の名を書くのか、と思われる向きもあるだろうが、何を隠そう私は大・まじめ人間なんである。
適当な名前を伝えて、いざ会計となった時、クレジットカードの名義と違うことがバレたら。そんな不安を抱えて美味しく食事ができないくらいの律儀さ。融通が利かないともいう。