ここのところ「時代劇入門」と銘打ってのイベント開催やメディア出演を続けている。
「時代劇」というと『水戸黄門』などのイメージが強いせいか「古臭い」「ワンパターン」といったネガティブな印象を持たれてしまい、食わず嫌い的な敬遠をされることが少なくない。だが、時代劇は自由で幅広い表現手段である。そのことをより多くの人に知ってもらうべく、偏見を取り払っていければと思っている。
たとえば、市川雷蔵主演「眠狂四郎」シリーズなどは「時代劇って本当に何でもありなんだ――」とご理解いただけるのではなかろうか。
転びバテレン(弾圧により棄教したキリスト教神父)に母を犯されたことで生まれたという陰惨な出自、それ故の強い人間不信と特に女性への容赦ない接し方、そして神との対峙――。主人公の狂四郎(雷蔵)の設定は、淫靡で妖しい世界を自在に創作するのにピッタリだった。
その極致とも言えるのが、今回取り上げるシリーズ第十一弾の『人肌蜘蛛』だ。残虐な兄・チェーザレと淫蕩な妹・ルクレティア。伝説的に語られている中世イタリアの貴族・ボルジア家の兄妹を江戸時代に登場させ、狂四郎と対峙させようという発想で生まれた作品だ。それを違和感なくできてしまうのが、このシリーズの凄さといえる。
将軍の落とし胤(だね)で、森の奥に大きな屋敷を構える土門家武(川津祐介)と妹・紫姫(緑魔子)。兄は村人を連れ去っては弓で射殺し、妹は男に見境がない上に持病の頭痛が酷くなると誰彼かまわず簪(かんざし)でメッタ刺しにする。本作が恐ろしいのは、この狂った兄妹に立ち向かう狂四郎が、彼らを上回る狂気を見せていることだ。
特に、紫との対決場面は圧巻だ。紫は狂四郎に自分と同じ「生き血の臭い」を感じ、誘惑する。「狂四郎、私の肌を見て、そなたの目が少しでも燃えたら、私の勝ち」と裸になり、迫ってくる紫。だが狂四郎は動じない。「そんな眺めには慣れている。他に趣向はないのか」と蔑(さげす)んだ眼差しを浮かべて突き放すのだ。逆上した紫は家来たちに狂四郎を斬らせようとするが、一蹴されてしまう。ここで終わればヒーローらしいのだが、それだけで済まないのがこの男の尋常ならざる点である。
敗北感の屈辱に震える紫を、狂四郎は見下しながら抱くのだ。その際の狂四郎のセリフが強烈だった。「外では烏が屍肉を喰らい、十字架に架けられた死人の前で死神を抱く。お前と俺と、二人で招いた宴だ。狂い叫ぶがよかろう」
その退廃感漂うエロスからは崇高な美しさすら醸し出されていた。こうした世界も描けるのが、時代劇なのだ。