“テレビの絶頂期”を見ながら子ども時代を過ごし、15年間NHKでアナウンサーとして勤務した今道琢也さんは『テレビが終わる日』(新潮新書)の中で、テレビへの「信頼」が低下しつづけている理由は以下の4つだと指摘した。
1.伝えている内容への不信感
2.取材姿勢への不信感
3.相次ぐ不祥事への不信感
4.テレビという「既得権者」への不信感
ここでは、今道さんが現場で目の当たりにしてきたテレビ局の“特権意識”に触れながら、2の「取材姿勢への不信感」について分析した内容を紹介する。(全3回の3回目/最初から読む)
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「世界の中心」という錯覚
2の「取材姿勢への不信感」ですが、代表的なのはメディアスクラムです。事件の被害者や災害の犠牲者の家に大挙して押しかけ、ご家族はもちろん、近所の方にも大変な迷惑をかけることがあります。また、公道などでロケをするときに、自分たちの撮影を優先し一般の人をないがしろにする、といった事例、さらには取材先に無理なお願いをして迷惑をかける、といった事例もあります。
傍若無人な取材姿勢はSNSでもたびたび指摘されています。少し前になりますが、こんな発言が物議を醸しました。ある人が自宅に帰ろうとしたところ、自宅近くの路上でテレビ番組のクルーが撮影をしていて、通行を止められたそうです。そのことに抗議したところ、テレビの撮影スタッフから「一般の方々と我々は違うんです」と言われたのだとか。
このいきさつがXに投稿されると、たちまち炎上しました。最終的には、番組制作会社が自社のサイトに謝罪文を掲載する事態となりましたが、この発言は、テレビ人の本音を表しているように思います。
私自身がテレビ局にいたときの話として、こういうこともありました。番組のネタを探しているときに、世界中の珍しい消しゴムを収集している人がいる、という話を聞きつけ、取材をさせてもらえないか先方に電話で交渉をしたことがあります。しかし、相手の方からは「以前、別のテレビ局の取材を受けたが、勝手なことをされてとても不愉快だった。もうどこの局でも取材には応じない」と言われてしまいました。何度か頼んでみたのですが、取り付く島もありません。おそらく、よほど腹に据えかねるようなことがあったのでしょう。
このような問題が生まれる背景として、テレビ人の中にある「自分たちを中心に世界が回っている」という意識が指摘できます。
・テレビはみんなが見ている→みんながテレビに出たいと思っている→テレビは特別な存在である→だから多少の無理は許される
という論理構成です。
実際に、テレビはみんなが見ていて、みんなが出たがっている、という時代であれば、ある程度のことは大目に見られていたのかもしれません。しかし、最初の前提である「テレビはみんなが見ている」からして、すでに崩れ始めており、その論理は成り立たなくなっています。誰もがSNSで情報発信できるようになった今、傍若無人な取材の進め方は、すぐに人々の知るところとなります。「最近はコンプライアンスがうるさくてテレビがつまらなくなった」と言う人もいますが、「昔が異常だっただけ」と言った方が正しいでしょう。

