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徹夜で6リットルのサリンを製造

 実は麻原が指示した時点で、教団が保有するサリンは無かった。警察の捜査を警戒して、1月の時点で大量に処分していたためだ。3月18日未明、麻原の指示を受けて遠藤らがわずかに残っていた原料から、徹夜で6リットルのサリンを製造。慌ただしく袋に詰め込んだ。精製が不十分だったため、本来無色透明であるはずのサリンが茶色だったという。高橋克也容疑者も警視庁の調べに、「実行役を車で運んだが、一緒に運んだ液体は茶色だった。サリンは透明だと思っていたので、液体がサリンとは思っていなかった」と供述している。

オウム真理教施設第7サティアン ©文藝春秋

 こうして3月20日、世界でも例を見ない化学兵器による無差別テロ「地下鉄サリン事件」が起きた。警察は結果としてオウムの暴走を止めることができなかった。死者13人、負傷者6300人超。オウムが救済の名のもとに命を奪ったのは、無辜の人々であった。

 実は地下鉄サリン事件のあとも、警察の捜査を攪乱し麻原の逮捕を阻止するため、オウムはいくつもの犯罪を企図していた。その一つに未遂に終わった「石油コンビナート爆破計画」がある。左翼系過激派の犯行と見せかけて、4月30日にコンビナートを爆破するというものだった。

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 中川智正(サリン製造メンバーの一人、死刑確定)が、元女性信者に旧上九一色村にあったサリンの実験棟から、爆弾の原料を運ばせていたというのである。