焼け残った大きくて重いトタンを拾ってきて、父母2人、弟の順に並べた。そこに燻った瓦礫を集めて載せると火をつける間もなく、燃え始めた。涙は出なかった。両手は煤と血糊で真っ黒になっていた。
「私に残ったのはこれだけ」
手についた真っ黒な血糊を両手両腕にこすりつけた。
叔父と叔母は実の子供のように育ててくれた。
「私と妹、いとこの弁当箱にご飯を入れるのは私の役割でした。私は器械体操をしていた妹にたくさん食べさせたいから、自分の分を妹に全部持たせて、私は学校でみんなと一緒にお芋を食べていました。楽しかったですね」
毎年8月9日が近づくと、今もなお体調不良を繰り返している
75年間、富美子さんは原爆の記憶を胸の奥に封印してきた。しかし91歳になって、初めて被爆体験をSNSに投稿し始めた。
きっかけは2020年8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典だった。安倍晋三首相(当時)の挨拶が3日前の広島の式典と酷似していたことがSNSで騒がれた。被爆者の思いが軽視されているようで、悲しい気持ちになった富美子さんは翌10日、自らの16歳の記憶を立て続けにツイートした。
75年間封印してきた記憶を文字にしたのだ。
富美子さんは8月9日が近づくと、今もなお毎年体調不良を繰り返している。
「血圧も200を超えて、運動がお休みになりました。また頭痛も酷いので、痛み止めや血圧の薬を増やしてもらっています。原因はわからないですが、毎年8月9日に近くなると、何年経ってもこういう状態になるんです」
富美子さんが長い間記憶にフタをし、考えないようにしてきてもあの日の恐怖を、苦痛を、そして深い悲しみを体は覚えているのだ。
昨年8月9日。長女・京子さんから江戸川区の葛西に原爆犠牲者追悼碑があると聞いて参拝に行った。
「娘がずっとスマホのラジオで平和祈念式典の中継を聴いていて、11時2分(原爆投下時刻)ですよと教えてくれ、碑の前で手を合わせたら、涙が出て来ました」
家族を火葬したあの日に流れなかった涙が、この日流れた。
父親のメガホンに込められた「人々を守りたい」という思い。それは今、96歳の富美子さんの発信となって受け継がれている。
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