その言葉を背中で聞きながら歩き出した。70~80メートルほど歩いて振り向くと、母が門の外に立って見送っていた。電車通りへの角を曲がる前にもう一度振り向くと、母はやっぱりそのままの姿勢で家の前に立っていた。そして小さく手を振った。
歩きながら、「これっきりの別れ」「これが最後かも」という母の言葉がふいに胸に迫ってきた。時代の切羽詰まった感情から出た覚悟にも似た思いを言葉にした母に、富美子さんは予感めいたものを感じていた。それが母との最後の会話になる。
「みんな死んだ、みんな死んだ」と泣きながら飛び出してきた妹
工場に着いて作業が始まっていた午前11時2分。突然、ドーンと凄まじい爆音。次の瞬間、爆風で富美子さんたちは吹き飛ばされるように倒れ込んだ。
「長崎がやられた!」
富美子さんたちが工場横の丘に駆け上がると長崎の上に崩れかかった香焼島を出る最初の船に乗り、必死に家族のもとへ向かった。
長崎駅手前の五島町まで来ると、その先は火の勢いが強く進めなくなった。一旦、山の方に上がり、農道を行くことにした。途中、数名の男性に「ここから先は行かない方がいい」と止められ、夜を明かした。明け方、誰もいない農道を歩き始めた。
最初に会った人のことは忘れることができない。ずるりと剥けた体中の皮膚を着物を着流したように引きずっていた。しかし、この人を見た途端、何も感じなくなり、当たり前のようにすれ違った。そこから1時間ほど進むと細い川沿いの道に出た。そこは考えられないような火傷をした負傷者と死体でいっぱいだった。
そこを下ると焼け尽くされた町はペタンと平らで何もなかった。そここそが爆心地で、我が家がある駒場町だった。家から目を背け、浦上川にかかる簗橋を渡った。そこから500mの横穴壕(町の防空壕)に着くと、妹が飛び出してきた。「みんな死んだ、みんな死んだ」。泣きじゃくりながらすがりつき、見たこと、あったことを一気に話し出した。
妹は活水女学校の1年生で、8月1日の空襲で機銃掃射を受けて以来、恐怖で横穴壕から一歩も出られなくなっていた。
妹の話によると、8月9日午前、警戒警報に続いて空襲警報が発令され、近所の子供たちが横穴壕に飛び込んできたが、8時30分には「空襲警報解除」の声が聞こえてきた。横穴に隠れていた子供たちは一斉に外に飛び出した。弟たちも、妹の制止を聞かず飛び出し、手をつないで走って家に帰ってしまった。



