家族を探しに家に戻る道中に出会った14歳の少女

 また、長崎に原爆が投下された後、家族を探しに家に戻る道中、富美子さんは、家から近かったマルハ工場で一緒だった14歳の少女と出会った。その子は富美子さんを「お姉さん」と呼びとめ、「鹿児島に帰りたい」と言った。自分のことで精一杯だった富美子さんは浦上駅と長崎駅の方を指さし、「駅に行ってみたら」としか言えなかった。あの少女はその後、無事に家に帰れたのか……。そのことがずっと頭の中にあった。

 京子さんは、鹿児島県庁や奄美の市役所に電話で問い合わせ、少女の行方も探ろうとしたが、名簿は戦犯になることを恐れた関係者によって焼かれていた。「せめてあと5年早く話してくれれば、まだ生き残った人たちがいたはず」と悔しさを滲ませる京子さんだが、富美子さんが胸の内に秘めた思いをようやく話せたのがその時だったことは誰にも責められない。

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 そんな信頼しあう母娘の共著『わたくし96歳 #戦争反対』は、企画の話があってから書き終えるまでわずか4か月という短期間でほぼ完成した。その理由は京子さんが“記録魔”だったからだという。

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「取材のたび、メモったり、家に帰ってから覚えてることを全部打ち込んだりしていました。それが結構たまってて、本のお話をいただいたときは、タブレットにもスマホにも、そして手書きのメモやノートもかなりの量になっていたんですよね」(京子さん)

 そして、それらをもとに本の執筆が始まった。京子さんのメモや記録は、本のために、よりリアルな描写が加えられた。

 話すと決意はしていても、富美子さんにとって戦争の記憶をよみがえらせることはやはり苦しい。しかし京子さんは無理強いせず、母が話せるタイミングを粘り強く待ったという。

「いろいろ聞かれて、もう嫌っていうようなことはあります。ですから、その時はこの人(京子さん)は絶対そのままにしてくれました」(富美子さん)

 富美子さんの京子さんに対する信頼は絶対的だ。

「私はこの人(京子さん)、ものすごく頭がいいと思ってます。子どもにいろいろ教わっている。私が今日まで頑張って、いろいろな方と会ったりいろいろなことができたのは、この人が本当に一生懸命やってくれているから。ですからやっぱり東京に出てきてよかったなとほとんど毎日のように思ってます」