昭和初期に生まれ、太平洋戦争が訪れようとする中、朝鮮半島で少年期を過ごした作家の五木寛之氏。その日々の一端を振り返る。
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〽僕は軍人大好きよ
今に大きくなったなら
勲章つけて 剣下げて
お馬に乗って ハイドウドウ
((『僕は軍人大好きよ』詞:水谷まさる 曲:小山作之助)
国民があれほど歌を歌った時代もないだろう。小学校へは腕を組み、合唱しながら通っていた。赤ん坊の子守唄まで軍歌だった。
戦争が始まった昭和12(1937)年、私は5歳だった。学校教師だった父は新天地を植民地に求めた。母は郷里である福岡県で出産し、赤ん坊だった私を抱えて父の待つ朝鮮半島へ渡った。父は出世の階段を身を削るようにして一段ずつ上り、私たちは地方都市や寒村を経て、大都会のソウルに移り住んだ。
満州事変が起きたのは昭和6(1931)年。私は満州国が建国された昭和7(1932)年の生まれだから、戦争の時代に生まれたといっていい。しかし外地では、戦争が始まってもしばらく「平和」が続いていた。
五木寛之氏 ©文藝春秋
幼い頃の最初の鮮やかな記憶は、ソウルの街中が沸き返った提灯行列の風景だ。花火が上がり、歓声が渦巻く。「バンザイ! バンザイ!」。花電車が走り、旗が上がり、行列は夜通し絶えなかった。それが「漢口陥落」を祝うものだと知ったのは、大人になってからだ。
6歳になるとミサカ小学校に入学した。写真を見ると、ずいぶんモダンな格好をしているのに驚く。ダブルブレストのジャケットにおかっぱ頭という、すこぶるお坊ちゃん風。当時はそれを「ケイオウ服」と呼んでいた。父はスーツにネクタイを締め、ソフト帽を被って登校した。同じく学校教師だった母も、朝になるとスーツを着て、中ヒールの靴を履き、鞄を提げて、タッ、タッ、と靴音を響かせて出掛けて行った。ソウルには三越をはじめ大きな百貨店がいくつも進出し、ステーションホテルという西洋風のホテルのトイレは水洗だった。
