広島に原爆が投下された1945年8月6日から80年目を迎える今年。先月7月20日に、約350人の中学生、高校生らが参加し、ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「次世代へのメッセージ」(読売新聞社主催)が東京大学の安田講堂にて開かれた。
フォーラムの中で、広島出身のノンフィクション作家・堀川惠子さんが広島平和記念公園の中にある「原爆供養塔」をテーマに基調講演を行った。
身元が判明していながら引き取り手がいない供養塔の遺骨の謎を追って、堀川さんは丹念な取材を長年にわたって行った。その結果、ついに重大な新事実にたどり着く。その軌跡は名著『原爆供養塔』に克明に描かれている。
知られざるヒロシマの秘話を、堀川さんが思いを込めて語った講演レポート(全3回)、ラストの回をお届けする。
遺骨者名簿にあった〈田中光江〉さん
一人だけ、今日、ご紹介しましょう。遺骨者名簿の「た」行の中に、〈田中光枝 日赤和歌山支部〉というお名前がありました。
不思議に思ったんです。日赤和歌山って今もあるんですよ。なんで名前が分かっていて遺骨があるのに引き取り手がないことになっているのか。調べましたら、なんとこの同僚の方が生き残っておられた。取材当時は94歳の坂内ミツコさんです。この方が、田中光枝さんからある話を聞いていたんです。
供養塔名簿にある田中光枝さんは、昭和18年9月に日赤和歌山を出て、昭和18年11月にはビルマの陸軍病院に従軍看護師として入っているんですね。で、日本に帰ってきたのは、命からがら戦禍を生き延びて、昭和21年7月なんです。ということは、原爆が投下されたとき、田中光枝さんは国外にいたんです。
田中さんが亡くなる直前、同僚に打ち明けた話
田中光枝さんは2008年に亡くなる少し前に、ミツコさんに、こんなことを打ち明けたそうです。
「あの原爆供養塔の遺骨者名簿の中に、私の名前がのっている。実は、戦争中にビルマに向かって宇品港(現・広島港)を出るとき、持っていたかばんをトイレの外に置いたままお手洗いに入っちゃった。で、用を済ませて出てきたらかばんが失くなっていた」と。かばんの中には下着をたくさん入れていたそうなんです。
当時のことですから、空襲にあっても身元が分かるように下着の胸のところに「日赤和歌山支部 田中光枝」と名札を縫い付けてあった。ということは、おそらくそのかばんをトイレの外で持っていった人が、原爆が投下されたとき、私の下着を着て亡くなったのだろう。だからこういう事になったんじゃないか、という話なんです。
結局、名簿から田中光枝さんのお名前は消えたんですが、これは何かが解決したわけではなく、もう一人また新たな行方不明の人が増えてしまった、そういうことです。


