黒野 ひとつ言えるのは同じ組織であっても、長の座にいる人間の能力と性格によって、大きく違ってくるということです。

半藤 杉山元なんですよね、太平洋戦争開戦時の参謀総長が。ああ、と言いたくなる。

戸部 杉山は陸軍大臣と教育総監、そして参謀総長という三官衙(かんが)のトップをすべて経験していますよね。昭和になってからは彼だけですよ。

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保阪 どうして杉山がそこまで偉くなったのか分からない。

半藤 さあ、そこですよ(苦笑)。まず言えるのは二・二六事件で上が飛んだからということ。いわば“三等重役”ですよ。陸大の成績も十五番ですから、輝かしい成績とも言えない。「精励恪勤(せいれいかっきん)、承詔必謹(しょうしょうひっきん)」の姿勢が宇垣一成に評価されて、エリートコースにのったと言われています。

不遜だった杉山元

杉山元

保阪 でも天皇は明らかに杉山を信用していませんよ。前にも話が出ましたが、杉山は開戦前の昭和十六年九月に、永野修身海軍軍令部総長とともに、「南洋作戦だけは三カ月で片付けるつもりであります」と展望を語っています。それを聞いた昭和天皇は、支那事変のときは一カ月で片付くと言ったのに、四年たっても片付かないではないか、と叱責するのです。

二・二六事件で鎮圧を命じた昭和天皇 ©文藝春秋

黒野 昭和天皇は杉山を替えてほしかったのでしょうね。

戸部 天皇が杉山の更迭を命じなかったのは、田中義一のときのトラウマがあるからだと思いますよ。

福田 そうでしょうね。昭和三年、張作霖(ちようさくりん)爆殺事件を軍部が起こしたとき、田中義一首相は軍部の抵抗にあって関係者に厳罰をくだすことができなかった。その弱腰を昭和天皇が怒り、「それでは前と話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と直接、叱責して、田中内閣は総辞職を余儀なくされた。これは立憲君主制の枠をはみ出した行為で、その反省から以降、天皇は人事に容喙(ようかい)しないよう自制しています。

保阪 天皇にあそこまで言われたのですから、杉山自身が恐縮して辞めなければいけなかった。それが辞めないばかりか、奏上の時刻にも遅れてきたりと失礼な態度をとっている。その背景に何があるのか、以前から不思議に思っているのです。

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