彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか? 最高のメンバーが論じ尽くした特別大座談会「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」の一部を抜粋して紹介する。(初出:平成19(2007)年「文藝春秋」6月号)(全2回の2回目/前編から続く)

半藤一利氏(昭和史研究家・作家)、保阪正康氏(ノンフィクション作家)、福田和也氏(文芸評論家・慶應義塾大学教授)、戸部良一氏(防衛大学校教授)、黒野耐氏(元陸将補・武蔵野学院大学講師)

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杉山の最期は…

杉山元

黒野 私も杉山があんなに不遜な態度をとれる理由を知りたいですね。絶対的な権力で軍を押さえていたわけでもないようですし、単に時どきの主流派にくっついて泳いで偉くなっただけの人に見えますが。

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半藤 杉山が陸軍大臣のときに盧溝橋事件が起きたのですが、省内をまったく統制できず、ついたあだ名が「グズ元」。またの名を「便所のドア」。その心は「押せばどちらにでも開く」。

保阪 杉山は敗戦後の九月十二日に自決しますが、陸軍大臣の阿南などに比べると、ずいぶん遅い。周囲の様子をうかがいながら、ようやく決意しています。夫人も一緒に死んでいる。

半藤 ちょっと彼を弁護しますと、前線に出ていた兵の復員を全部すませてから自決することを、杉山は敗戦直後から決めていたのです。兵をスムーズに武装解除、復員させなければ暴動が起きるかもしれない。それが終わるまでは死ねない、と考えていた。ところが夫人には説明していませんから、「早く死ね、早く死ね」と矢の催促をされたそうです。国防婦人会の会長などを務めていた杉山夫人は、夫と自分の戦争責任を強く感じていた。

 後始末が終わり、「第一総軍司令官としての役割は終わったから、これで死ぬ」と言って、杉山はピストルを手に自室に入りましたが、しばらくするとドアを開けて顔を出して、「このピストルは弾が出ないぞ」と言ったそうです。副官が見て、「閣下、安全弁がかかっております。これを外さないと」と外して渡したところ、「今度は大丈夫か」と言って死んだのです。

保阪 切腹したんじゃないんですか。