彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか? 最高のメンバーが論じ尽くした特別大座談会「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」の一部を抜粋して紹介する。(初出:平成19(2007)年「文藝春秋」6月号)(全2回の1回目/後編に続く)
半藤一利氏(昭和史研究家・作家)、保阪正康氏(ノンフィクション作家)、福田和也氏(文芸評論家・慶應義塾大学教授)、戸部良一氏(防衛大学校教授)、黒野耐氏(元陸将補・武蔵野学院大学講師)
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参謀本部の制度的欠陥
黒野 実は陸軍の組織は辻のような参謀の暴走を許す制度的欠陥を抱えていたのです。
この点を理解するには明治十一年に山縣有朋が参謀本部を組織したときにまでさかのぼらなくてはいけません。このとき山縣は、軍内で政治的に対立していた三浦梧楼(みうらごろう)や谷干城(たにたてき)ら四将軍の力をそいで、参謀本部長である山縣自身が、当時の近衛や鎮台(のちの師団)司令部を牛耳れるように、参謀本部が鎮台司令部などの参謀を直接、指揮できる制度を作り上げたのです。
参謀本部が配下の参謀を通して、「これが天皇の考えだ」と言って作戦を立案してしまえば、司令官はその案を破棄するわけにはいかなくなる。統帥権を楯に天皇を持ち出されてはいかようにも反対できません。それを推し進めていけば、司令官をさし置いて参謀が軍を差配する「幕僚統帥」となるわけです。
福田 そういう経緯があったから、三浦梧楼は原敬内閣のときに参謀本部を潰そうとしたのですね。
黒野 そうなんです。改革を試みた人は他にもいましたが、結局は失敗に終わります。参謀本部が発足したときに制定された「参謀総長は全陸軍の参謀を統轄する」という、参謀本部条例が生き続けてしまった。
私は防衛大にはじまり、各所の教育機関で、欧米流の組織論を学んできました。だから最初にこの条例を読んだときは、理解できませんでした。参謀とは上官である指揮官の、いわば小間使いのはずではないか。それなのに上官をさし置いて参謀本部の命令を実行する。これは欧米の常識では考えられないことです。制度の歴史を勉強して初めて、これが山縣有朋が権力闘争の過程で作り上げた日本陸軍独自の制度だ、と理解できたのです。
戸部 山縣の個人的な思惑ばかりではないと思いますよ。おそらく日本がモデルにしたプロシア軍の参謀組織も同じようになっていたはずです。ドイツは各地の独立した部隊を中央部が統轄するために参謀を派遣して、彼らが連絡調整をやるわけです。それが拡大解釈されて、参謀が統括するという考えが出てきたのではないでしょうか。



