太平洋戦争時、捕虜収容所の所長として日本人捕虜たちと交流を重ねたオーテス・ケーリ氏。彼はどのように日本人を眼差していたのか。
1950年に『日本の若い者』として刊行され、この度再刊となった『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の見た日本軍と敗戦日本』(角川新書)の一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/1回目を読む)
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反米意識の再来
三月に入って、連日のように日本本土爆撃の報が、壁新聞(編集注:有志が英字紙のなかから日本の捕虜に興味のあると思われる記事を出来るだけたくさん翻訳して、張り出していた)に現れた。いったん過去のものとして忘れようとしていた戦争だ、自分の家族や、友人の上に迫り出すと、再び生々しい現実として、戦争が捕虜を苦しめ出した。
「畜生!」
「ひど過ぎる!」
口に出して、一途にアメリカを憎悪する声が高まってきた。それまで心穏やかに勉強にいそしんでいた者の中から、また昔の狂躁と反米意識に還る者が現れた。それが一番露骨に現れたのは“勘太郎”だった。彼は、“ブラック”と北川と組んで、経済原論の本を読み合うところまで行っていた。
午前いっぱいが、彼の読む番だったが、朝っぱらからマージャンに耽り、「ポンだっ。手を出すない」というような大声がテントから聞こえた。十も年上の元特高刑事に食いついて、柔道の手でテントの外へ放り出されたりした。この特高氏は、理屈の上では進歩的な分子と共鳴出来たが、四囲の様子をうかがい、単純に裸にはなれなかった。
だから、際どい議論になると、言を左右にして、若い者を迷路に引きずりこんだり、ヘラヘラと笑って煙幕にかくれるたちだった。勘太郎が喧嘩を吹っかけたのも、そうしたあいまいさに引っかかったのだろう。しかし、腕力は“特高”の方が数段上だった。
事務室の当番兵をしていた“みっちゃん”もすっかり反動化した。“青年社長”と一緒に投降した海軍の下士官で、八ッ頭のような体を精力的に動かして、よく働く愛嬌者だった。鉛筆を舐め舐め寺子屋でABCを書いている姿はほほえましいものだったが、いつの間にか投げてしまった。


