前にも増して働き出したが、以前の朗らかさがなく、いらいらしている様子だった。「夜眠られないから、めちゃくちゃに働きたい」と顔に脂汗を流していたということだった。“右門”のテントを離脱した彼は、勘太郎のテントに加わった。そのテントが集会所のように繁昌し、なんとなく低気圧を孕み出した。「××団」と書いたノボリがそのテントから繰り出され、ノボリを先頭に、バケツを叩きながら柵内をデモり歩くこともあった。何か起こりそうな気配だった。

ルーズヴェルトの死

 ルーズヴェルト大統領の死を、私はニミッツ司令部の建物にいて聞いた。戦時中のアメリカ国内の様子を聞かされていない日本人は、ルーズヴェルト大統領が、どんなに国民から敬愛されていたかを知らないだろう。特に、若いわれわれにとっては、いい意味での近代的英雄だった。当時のわれわれには、ルーズヴェルトと、トルーマンとでは、あまりにも懸隔があり過ぎた。かけがえのない大人物が去ったあと、ぽっこり空いた巨大な空白をかかえての悲しみは耐え難いものだった。

 親友のディーン中尉と司令部を出た。ちょうど退庁時刻で、司令部の星条旗が、国歌の吹奏と共にゆるゆると下ろされてゆくところだった。大体私はこの行事が嫌いだった。そうした持って回った儀式がぴったりとこないのである。だから、こういう場面にぶつかると通りがかりの建物へ逃げこむ方だった。海軍は建物の中では帽子をとることになっていた。帽子をとれば敬礼しなくてもよかったからだ。

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 ところがこの日は、建物へも逃げこまず、立ち止まって敬礼もせず、国歌吹奏の中を、ずんずんと歩いていった。この行事は、特別に、ルーズヴェルトの死を悼んでの行事ではなかった。しかし、悲しみを懐いたわれわれには、こんな行事が空々しくてやり切れないのだった。「そんなことで一体すまされるのか」といった反発が突き上げてくるのだった。こんな時こそ、国旗の上げ下ろしをやめ、国歌吹奏もやめて、われわれを放っといてもらいたいのだった。深い悲しみに遭ったときほど、ごてごてした悼辞はおろか、全く誰からも口をきいてもらいたくないあの気持だ。

 明くる日、収容所へ行くとブラックが、真っ先にルーズヴェルトのことを言った。その目が、彼は彼なりに厳粛な感情を湛えていることが分かった。彼は、年齢も、学歴も、私と似通っていた。アメリカ人と日本人でありながら、物の感じ方や、考え方に、びっくりするほど近いものを発見した。幡さんや北川は、年も上だが、もう社会人だった。私やブラックから見ると、彼らは、私たちにはない何年かの社会経験から物事を割り切って処理してゆく感じがした。それはそれで立派だと思う反面、ブラックに対してより近しい感じを持つのだった。